「ネクラ少女は黒魔法で恋をする」

名鉄近鉄桃花台の65駅降りつぶしの旅から帰ってきました。その感想はさておき、旅行のお供に持っていったライトノベルの話でも。その作品は、熊谷雅人ネクラ少女は黒魔法で恋をする」(MF文庫)。現在、二号まで出ているシリーズの第一作に当たります。

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

ネクラ少女は黒魔法で恋をする (MF文庫J)

キーワードは「文化系サークル」「メガネっ娘」「メガネをとれば美少女」「魔法」「先輩」「死んでしまった恋敵」「女だけど料理下手」「異常なほどの金持ち」「男はキライ。でも、気になる」などなど(以下、ネタバレあり 鉄ネタなし)。




こうやってキーワードを並べていくと、なんだかそれだけで物語が語れそうですね。ライトノベルというのはそうした記号となったエッセンスを取捨選択していく作業なのでしょう。私の場合、「剣とヨロイ物」「あかほりさとる物」「超能力物」「魔法物」「人間の形をしていないイラスト」なんてのがNGなので、そうした要素の作品は最初から除外します。そういった意味で「ネクラ少女は黒魔法で恋をする」も「魔法物」という点で引っ掛かりがないわけでもないのですが、その項目は存在しなかったものとして読み進めていきました。これが正しいラノベの読み方だと思います。たぶん。

最大の特徴は「ネクラ」なこと

本作の特徴は、ヒロインが「ネクラ」なこと。それで言い切ってしまうのもなんですが、やはり本作の唯一の、そして最強のウリになるのでしょう。自己否定の塊の(あえて言うなら境界性人格障害っぽい)女の子が、ある日、鏡を見ると、違う世界が待っていた。「シンデレラ」や「鉢かつぎ姫」のように古今東西でお馴染のストーリーをここで楽しめばいいんです。

でも、「ネクラ」ってなんだったんですかね。80年代初頭、いしかわじゅんによって造られ、タモリに広められたこの言葉は、私がリアル高校生だった80年代後半にはすでに死滅していたような気もします。それが21世紀の、しかもナウなヤング向けの本の題名として登場してくるとは……かなり意外にも思えます。読了後、二十数年前の死語を持ち出したその狙いについて12分ほど考えみました。結論は出ません。

それと、「メガネをとれば、実は美少女」というところ。少女マンガの世界でも、やはり80年代には死滅してしまい。今ではギャグにしかならないようなネタをあえて押し出したところに、作者の勇気を感じました。私もオタク産業の末席に連ねている一員として、その要素の素晴らしさについてブログ10日分は語れそうな気がします。もっとも、34ページ目の「雰囲気が違う……」と隣のそのまんまのイラストを見た段階で、大方の読者は本作のストーリーと結末を予想できてしまうでしょう。でも、「なんじゃ、この使い古された手は……」とムキになって怒ってはいけない。この後は、次々と演出される「萌え」要素を予定調和的に楽しんでいけばいいんですね。たぶん。

ラノベ歴四ヶ月で語るのは無理でした

けど、なあ。113ページの「みんなと一緒に……」以下はないよなあ。なんでここで悟りきったようにいきなり心情が変化するんだ。それって、真帆が、拓馬やほかの連中とお芝居を作り上げていく過程で体験していくことであって、最大の見せ場なはず。なのに、入部初日に、しかも主人公の独白で語らせてしまうとは……それでは成長譚としての意味がない、っていうか、もったいない。そこまで分かりやすくしてもいいのか。

あと、肝心の演劇はどうなったのか。学園祭や演劇を題材にした作品って、キャラクターたちがその出し物を作り上げていく過程を、読者が追体験するところに最大の魅力がある。でも、第二作があるからそこで続きを書けばいいのか。それとも、処女作にして早くも「紅天女」みたいな壮大な作品が予定されているのか。やはり物足りなさが残ってしまう。


なんて、無いものねだりをしてみました。こんな読み方をしていると、やはりポイント、ポイントでツッかえてしまい、あまり喉越しは良くありません。とりあえず、そうした未成熟さや展開のまずさをネチネチ指摘しても楽しくないわけで、文中に散りばめられた要素を消化していけばいいんです。そう割り切れば、飲み込みも早くなる。

ライトノベルというものに意識的に手を出してわずか四ヶ月。まだ読み手としての鍛錬が足りないようです。そんなことをぼんやりと考えてみた、夏休み最後の一日でした。

本当はラノベ初体験となった「春期限定いちごタルト事件」の話でも書こうとしたのですが、それはまた別の話。