「ゲド戦記」の不可解な2つの謎を考えてみた。
ようやく見てきました「ゲド戦記」。評価は60点。映画としては、とりあえずギリギリ合格点。9月1日、映画の日だったんで、入場料は1000円でした。それぐらいの価値はあったと思います。
ゲド戦記―TALES from EARTHSEA (ロマンアルバム)
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2006/08
- メディア: ムック
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でも、及第点だからといって、納得したわけではない。なんだか不可解なシーンがたくさんあって、そこに引っかかりを感じてしまいました。
以下では、宮崎吾朗の不可解な演出表現について言及していきましょう。副題は、「ギャグ顔にしか見えなかったアレンの狂気」「ラストシーンで三回上る朝陽」。もはや鉄道系サイトの面影はなくなったな……
ファンタジー小説に今日的課題を盛り込んだ巧さ
あまり予備情報や宣伝文句を見聞きしないようにしてきたのですが、7月末の段階から「『ゲド』ってあまり評判良くないね」とかいう話を聞いていたような気がします。ネットの世界ではなかなか凄まじい評価があったようですね。まだ公開する前なのに、Yahoo!映画のレビューでは山ほどの感想が着込まれていました。この数年、特に「もののけ姫」が興行収入日本記録を達成した後、おたく産業に浸かっている人たちの一部が、宮崎駿&ジブリブランドに対する嫌悪感、拒否感を露わにし始めた……という状況が根底にはあったわけで、そうした反発が二世監督の出現で行き着くところまできてしまったようです。
原作を読んだのは二十年ぐらい前。宮崎駿が映画にしようとして断念した作品があるって言うので、「長くつしたのピッピ」と一緒に読んだ記憶があります。当時の自分にはかなり難解で、二度、三度読み返さないと分からないところもありましたが、宮崎吾朗は、そうした小難しいところをきれいに取り外してくれ、分かりやすいストーリーに整理してくれたと思います。
そして、若者の抱える青年期の悩みなんかを盛り込みつつ、今日的課題をきちんとすくい上げていった。少々、わざとらしいとはいえ、「父殺し」という動機もあった。そこらが、とりあえず合格点とした理由ですね。
ギャグ顔にしか見えなかったアレンの狂気
ただ、物語としては整理されていたとはいえ、映像表現としては不可解なところもたくさんありました。「ジブリ作品としてはイマイチ絵が……」という意見も少なからずあったのもそこらが原因でしょう。
本作でとりわけ気になったのが、「アニメ的記号表現」のぶれ、です。
原作でも本作でも、人や世界が持ちうる「光と影」という側面に着目されています。物事には、必ず光り当たるところもあれば、影が差すところもある。そのバランスが崩れていった世界、それが舞台となったアースシーであり、主人公であるアレンなわけです。
でも、ねえ。作中でなんどかアレンが狂気に苛まれるシーンがあるわけです。op直後の獣たちと対峙するシーン、テルーと会った直後の格闘シーン、ハイタカの命を奪おうとするシーンetc,etc...... そのときのアレンの顔。眉毛が立っていて、目の下にクマができて、シワが寄っているんですけどねえ。その記号化された表現が出るたびに失笑してしまうんですよ。
日本のアニメ(その原型となったマンガ)には、不文律となっている様々な表現技法があります。(^_^)となれば「笑い」、(^_^;)となれば「焦り」。これらの記号的表現は、物心ついたころからアニメを見てきた人間にとってお馴染みの手法であり、クドクド説明される必要もない。だから、アレンの顔に「眉毛が立つ」「目の下のクマ」「色指定によるシワ」という要素が加わるたびに、「ああ、これは主人公が影の要素に囚われているという記号なのね」と理解できる。
ただ、どんな作品でも共通して同じ記号を使えるわけではない。シリアス物、ギャグ物とでは当然使い分けをしなければならない。「ゲド戦記」も、東映動画から宮崎駿へと伝わってきた長編物の系譜の上にあるわけでして、観客もその路線を期待している。冒頭の輸送船のシーンから父殺し……というアバンタイトルを見て、「風の谷のナウシカ」なんかを思い出した人もいたでしょう。
なのに、獣たちと闘うアレンの狂気の顔は、眉やらクマやらシワやら記号による表現しかされていない。急にアニメ的な手法に変わってしまうのです。で、そのシーンが終われば、何喰わぬ顔をしていつものジブリの絵柄に戻っていく。
もちろん、そうした古典的な手法を許容している「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」で使われるのは問題ないし、そのことをあげつらうのも無意味です。ただ、それらの作品と違ったレベルを目指した作品において、古典的な記号表現を見つけてしまうと、違和感しか残らない。少なからぬ観客たちや原作者が抱いた「絵がイマイチ」という気持ちって、そういうことじゃないのでしょうか。
そんなぶれがたくさんあるんですよ。
光や日の出の表現に作用されている透過光とか、満天の星空を表現しているのにやたらと一つ一つの星が大きいこととか、恐怖に苛まれるという表現が泥沼に沈むシーンで安易に暗喩されているところとか……もう挙げていってもキリがない。本来ならば監督が絵コンテを切る段階でイメージしておかねばならないのでしょうが、そこらをコントロールし切れていないから散漫になっている。
あと、クモのキャラデザってなんなんですかねえ。「銀河鉄道999」のプロメシュームにしか見えないんですねえ。永遠の命とかなんとかセリフが出てきたときは、これまた悪評高き「アンドロメダ終着駅」を思い出してしまいました。りんたろうに何か思い入れがあるのかな。ラストのガイコツもなあ。なにをしたかったのか。宮崎的世界観に松本キャラが混じっているのに違和感を覚えたのは自分だけじゃないはず。宮崎吾朗は、本来、混じり合わない物を無理矢理同居させる違和感、そこから滲み出てくるおかしみを演出したかったのでしょうか。それって、手塚治虫のヒョウタンツギと同じってことか。
ラストシーンで三回上る朝陽
そして最高に理解できなかったのは、ラストの朝陽のシーン。このラストのパートで日の出のシーンが三回あるのですよ。映画館で「なんじゃこれは」と思ったのですが、勝手な思いこみは行けないので、徳間書店のロマンアルバム(冒頭で掲げたムック本)で確かめてみました。
1回目は、テルーとアレンが真の名前を明かすシーン。ここで太陽は日の出から15分ぐらい後のシーンになっています。
その後、アレンとクモのドタバタがあって、その間、空は青く透き通った感じになっています。ここらの描写は押井守「機動警察パトレイバー the Movie」の箱舟のシーンを彷彿させてくれるのですが、一度、塔の先端に辿り着いたアレンがクモを追いかけて階下に走っていき、そしてまた塔の上に登る……という理にかなわない動きをするので爽快感が薄い。そして、ここで2回目の日の出のシーンがあるのです。先ほどよりも太陽の位置が低くなっている。テルーが"太陽をバック"という黄金パターンで立ち上がり、そして"イヤー、ボーン"して竜に変身してしまう。竹熊健太郎と相原コージが15年前に「サルでも描けるマンガ教室」で小馬鹿にしていた手法をよりにもよってラストシーンで使うのか。そんな宮崎吾朗の無謀さに勇気を感じ取りました。
3回目はアレンと竜の別れのシーン。ここでも太陽は空を真っ黄色に染めています。
映画の中で現在進行形に進んでいる「映画内現在」というのがあり、そこから回想や夢のシーンで別の時制に移ったり、逆に戻ったりというのはありふれた手法です。それを嫌う監督もいれば、逆に映画的表現として積極的に取り入れる監督もいる。
宮崎吾朗は、空の色を「青→黄→青→黄→青→黄→青」と描いて三度も日の出のシーンを演出していました。何を表現したかったのでしょうか。とりあえず、映画を見た後、12分ほど考えてみましたが、さっぱり見当はつきませんでした。そんな意味不明なカットがやっぱりあるんです。例の「テルーの歌」のシーンも同様。ハイタカがクモの居場所を探し求めている話が続いているのに、なぜテルーがいきなり草原で歌い始めるのでしょうか。なぜあそこにそのシーンが挿入されているのでしょうか。やはり不可解です。
合格点と言った割にはなんだか愚痴が多くなってしまいました。細田守「時をかける少女」との共通性についても語りたかったのですが、それはまた別の話。