宮脇俊三を語りたい。その3(後段は別な話)

2006-12-13 宮脇俊三を語りたい。その1
2006-12-14 宮脇俊三を語りたい。その2


 最後の「文章技術の妙」……これを書く力量も資格も私にはない。
 そこで安直だが、宮脇が記した文章論を紹介してみよう。引用元は阿川弘之『南蛮阿房第2列車』(新潮文庫版)に所載されている宮脇の解説文である。
 ここで宮脇は、『阿房列車』の伝統を引き継ぐ汽車好きの先達として、そして傑出した文才を駆使する先輩として、阿川へのオマージュを連ねる。
 その上で、

 句読点の使い方、体言止めの妙、硬い語と軟らかい言葉の使い分け、絶句してからの転調の技、程よい改行と会話の挿入、便利で安易な接続詞の排除等々、すぐれた日本語の醍醐味に溢れている。

と賛辞を送る。
 この評を踏まえて、改めて宮脇作品を読み返すと、いろいろと見えてくる物がある。内田百輭阿川弘之、そして宮脇俊三。三代に渡って受け継がれてきた鉄道紀行の流れがそこにある。単に先人を模倣するのではなく、自分なりの世界をしっかりと確立している。だからこそ、あの偏屈者の阿川は宮脇作品を愛し、自らの後継者と認めたのだ。

宮脇俊三を語ることの難しさ

 さて、こうして宮脇のスタンスを踏まえた上で、どうやって読者が、そして後世の人間が彼の作品を語ればいいのか。最後にコメントしたい。
 これは極めて難しい課題である。記号論ポスト構造主義なんかでテクストを語るわけにもいかない。書評として読者に紹介する目的で感想を書くという手法もあるが、それでは論点が広がらない。
 となると、作家論ぐらいしか切り口はない。別なブログで発表している宮脇俊三中央公論社時代の話もそれを念頭に置いてあるのだが、そうした作家の前史、生い立ちをただ語るだけでは、のぞき見的な興味にしか繋がらない。後の作品との関連性。宮脇と読者との関係。特に鉄道マニア層に対する影響も語りたい。あるいは、鉄道旅行とか紀行作家とか鉄道趣味界とか業界に与えた影響なども。
 個人的には、自分が「今、ここにいる」理由を突き止めてみたいという思惑もある。「ここ」とは、もちろん鉄道趣味の世界である。そこに僕を導いてくれたのは他ならぬ宮脇であり、その道筋を付けてくれたことに感謝している。先に種村直樹について何度か書いてみたのも同様の気持ちからだ。

鉄道が好きな自分とこの世界

 日本的なサブカルチャーの担い手である「おたく」の主流にいる人たちって、自分たちの存在証明を求めて懸命にオタク論を語ろうとする。なぜオレはこれが好きなのか。なぜオレは魅せられたのか。そして自分と作品とそのナカマとの関係性は。答のでない問いを追い求めようとする。特に90年代になってから顕著になった。きっかけは東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件と「新世紀エヴァンゲリオン」。今ではそうした文章で本屋やネットは埋め尽くされている。たとえ稚拙であっても、たとえ矛盾があったとしても、その行為自体は有益なことだと個人的には思う。
 ただ、鉄道マニアというか鉄道オタクというか、そうした層はあまり「鉄道趣味という世界」、そして「鉄道好きである自分」を語ろうとしない。目の前にあるモノをただ受容するか。あるいは受け入れられないモノには批判を加えるか。どちらかだけだ。もしかしたら、「鉄道が好きな自分」という存在に疑いがないのかもしれない。それはそれで羨ましい限りである。
 なんてことを考えていたのは、二十歳前後だった十数年前。今では完全にスレてしまい、ただ目の前にあるアイテムやイベント(たとえば新車投入、廃線情報、ダイヤ改正などなど)を消費し続けているだけだ。それはそれで楽しいのは否定しない。
 ただ、宮脇俊三は、そんな鉄道や旅の魅力を他人に伝えようと1998年まで著作活動を続けた。「鉄道が楽しい」なんてのは鉄道マニアにとっては自明のことである。疑う余地もない。それでも安易な形容詞に頼ることなく木訥とした口調で語り続けたのは、なぜか。それは、彼が、学生時代、そして社会人時代、なんども岐路に立たされたときに、「鉄道」という存在が救いになってくれた。そのことを後半生を通して証明したかったのだろう。「自分」と「世界」との関係性を問い直したかったはずだ。
 やや飛躍して結論づけてしまったので、これでおしまい。コミケ〆切前にこんなことを書いていていいのかという根本的な点で疑問もあるのですが、それはまた別の話。