水害で不通になる前から悲惨な状況だった三江線で考えてみる。その1
昨日の 「2007-02-06 ここ17年間で廃止された鉄道、42路線のリストを見てウンザリしてみる。」の続きです。
キーワードは「JRに残された"超赤字ローカル線"(輸送密度2000人以下)」「JRがそうした不採算路線を維持する義務も義理もない」の2つ。
その上で、2006年6月から水害による不通が続く三江線を取り上げ、その予兆ともいうべき2004年6月の落石事故に言及。次回は鉄道事故調査会による報告書を紐解いてみる……というのが流れです。そうしたことからも、2005年4月にJR西日本福知山線(宝塚線)尼崎−塚口間で起きた「JR福知山線脱線事故」とも絡んできます。
本当に経営が行き詰まっているのはJRの"超赤字ローカル線"
前回のエントリーの最後で書いたように、現在、赤字ローカル線の廃止問題でほとんどクローズアップされていないにもかかわらず、かなりひどい状況になっているのがJRが抱える"超赤字ローカル線"です。
80年代に国鉄再建が進められていく過程で、国鉄が抱える赤字ローカル線の中から廃止対象路線が選定されたのは1981年のことです。当初、運輸省は第一次・第二次の廃止対象路線を88路線4000km強を選び、これらを1985年度まで廃止にしたいとしていました。ところが、その後の議論の中で、様々な"例外"処置が設けられ、最終的に廃止されたのは71線区3000km弱のみ。いろいろ理屈はこねられていますが、政治的妥協の産物で除外規定が設けられたというわけです。後に第三次廃止対象線12路線も追加され、1983年10月に第1号の白糠線が消えて以降、1990年3月までに特定地方交通線の中で消えたのは83路線になります。
それから17年が経ちます。
かつて廃止対象の基準であった輸送密度4000人*1というラインを下回っている路線はかなり増えていると推測できます。なかなか具体的な数字が発表されないのであくまでも推測に過ぎないのですが、第一次・第二次の基準だった"輸送密度2000人"以下の"超赤字ローカル線"も増えているでしょう。このレベルでは正直、鉄道としては維持できません。
岩泉線、山田線、三江線、木次線、予土線、吉都線……いつ消えてもおかしくない路線が時刻表の路線図には一杯です。実際、JR北海道は90年代初頭に留萌本線や釧網本線、それに石北本線や根室本線、宗谷本線の部分廃止の可能性について言及したことがあります。最近だと、江差線の木古内〜江差間とかの問題も報道されています。
でも、そうした隠れた"超赤字ローカル線"の存在はほとんど注目されてはいません。
その一因は、国鉄改めJRが、1987年以降、各線毎の輸送密度を発表しなくなったことにあります。関係者から痛くもない腹を探られないようにしたのでしょうが、逆に"超赤字ローカル線"の存在が埋没してしまいました。支社長クラスが地元紙で、赤字だとか経営が思わしくない......といくら訴えかけても、数字が示されないからいまいちピンと来ないんですよね。廃止の協議が始まってから、実は可部線の可部駅以北の輸送密度は200人台だなんて説明されても地元も困る。
だからなのでしょうか。関連自治体はあまり危機感がないようです。実際、行政に携わっている人で鉄道を利用している人なんて誰もいないわけで、実感が湧かないというのも仕方ないと言えば仕方ない。とりあえず言い訳程度に利用促進協議会みたいな組織を設立し、思い出したように観光客誘致のイベントを展開したり、パンフレットを作ったりしているだけです。でも、近年の廃止路線の状況を見ていると、もはや観光面からの乗客増うんぬんを語ってられるほど生ぬるい状況じゃないんですよ。なんだか"満州に重戦車部隊で進軍してくるソ連軍に竹槍で対抗する関東軍"を見ているようです。
2000年に施行された鉄道事業法の改正によって、JRが路線廃止を実施するのは極めて容易になりました。他の私鉄同様、廃止届さえ出せば、1年後には確実に実行できるようになっています。とりあえず、今まではJRが東京や大阪の通勤線、あるいは新幹線で稼いだ利ザヤで維持しては来ました。どんぶり勘定でも問題ないとしていたのでしょう。
でも、そんな内部補助にも限界があります。JRには、輸送密度が2000人を切っているような"超赤字ローカル線"を運営していかねばならない法的義務はありません。そのことに気付いていない関係者があまりにも多すぎる。そんな気がします。
国鉄時代、中国地方最低の営業成績でありながら政治折衝で生き残った
ここからが本題。丁寧語はここまでです。
一昨年2005年9月に三江線(江津〜浜原〜三次)を訪れたことがある。高校生だった1989年に訪れて以来、16年ぶりの訪問だった。
三江線は地域で最大の河川である江の川に沿って広島県三次盆地と島根県石見地区を結ぶ陰陽連絡路線として建設された。島根県内の江津〜浜原間は戦前に開業したが、残りの区間の完成は遅かった。広島県側の三江南線口羽〜式敷〜三次間は1955〜1965年に完成し、残る浜原〜口羽間が完成にしたのは1975年になってからである。国鉄時代のローカル新線としては最も遅い部類に入る。同時期に開業が目された油須原線は未完のまま朽ち果てた。ぎりぎり国鉄再建を巡るトラブルの前に間に合って助かった組だ。
ただ、国鉄は当時より赤字ローカル線であると認識しており、新開業区間を日本鉄道建設公団から引き取るのも躊躇していた。問題は「陰陽連絡線としての使命を発揮できない」「戦前に開業した江津〜浜原間の線路規格の低さ」「島根・広島両県の最深部の山中にあって県境が入り組んでいる浜原〜口羽〜式敷間の利用者が極めて少ない」の3つ。次回に述べる1977〜1979年の3カ年平均での輸送密度は640人と中国地方の国鉄では最低の、全国でもワースト25位の成績。ただ、その後の政治折衝により、廃止対象路線から免れた。「沿線道路の不整備でバス代行が不可能」というのが理由とされたが、そこに不透明さがあったのは否めない。
その後、四半世紀、ほとんど投資もされず、合理化だけ行われ、現在に至っている。
三江線では2004年の事故で八十数カ所も徐行箇所が設置
さて、梅田からの阪神の夜行バスで浜田に着き、残暑厳しい夏の日の2日間、江津を皮切りに乙原や潮などの小駅を中心に降りつぶし(駅めぐりor下車駅増殖)を試み、最終的には20列車ほど乗り降りした。
そこで一番気になったのが、キハ120のスピード。やたらと線内に徐行箇所があり、まどろっこしい走りがどこまでも続くのでいらいらさせられた。
平地とか70年代に開業した新線区間では快適に走っているのだが、ちょっとした緩いカーブ、あるいは崖の側とかを通ると、その手前で時速20kmぐらいに徐行をする。原付や自転車並みのスピードである。それも1箇所や2箇所じゃない。せっかく経年新しいキハ120を投入しているのに宝の持ち腐れになっていた。いや、キハ120だからこそ加減速に対応できていたのかもしれない。
途中、浜原駅での長時間停車で列車の写真を撮ろうとしていると、ヒマそうにしていた運転士さんが話しかけてくれた。
で、キハ120が三江線内でやたらと徐行している理由も分かった。
- 1.線内には40km/h以下にスピードを落とす徐行箇所が八十数カ所ある。
- 2.減速を始めたのは04年から。崩落した岩石にぶつかって脱線したこともあり、地元自治体から減速するよう強く要望があった。
- 3.開業が古かった江津〜浜原間は特に状態がひどい。
- 4.保線にはなかなかお金がかけられなくなった。根本的な解決は難しい。
- 5.キハ120のような安物だと落石にぶつかっても対応できない。
もともと地盤の緩い地域であった上に、JRになってからまともに保線作業が行われておらず、線路内にも雑草が生い茂り、崖から伸びる枝木すら伐採されていない。そんな整備状況だった。「そのうち大変なことになるよ」と運転士さんはボヤいていたが、JRの上の方はちっともやる気を見せていないらしい。地元の状況なんかも聞きたかったのだが、発車時間も迫ってきたのでもう一度車内に戻ることにした。
江の川の側の築堤部にある江津本町駅とキハ120。ここから南の区間は水害後に大きな被害を受けて、代行バスの乗り入れはカットされた
そして、私が訪れた1年後の2006年7月18日、折からの豪雨による水害で38地点で土砂崩れや路盤崩壊が発生し、江津〜三次駅間全区間が運休する。
12月より浜原〜三次間の運転が再開するが、残る江津〜浜原間が復旧する見込みは立っていない。ここは戦前に敷設されてた区間であり、1975年に全通する前は三江北線と呼ばれていた。それゆえに線路規格がかなり低く、以前から崖崩れの危険箇所が点在していた場所でもある。根本的に路盤を作り直さねば列車を走らせるのは難しい。現在でも浜原〜江津間には37カ所の土砂流入があるという。
島根県議会での報告を見ると、島根県は三江線に関連する砂防事業に1.6億円の予算を組んではいるようで、JRも「江津・浜原間ついても、早期開通に向け復旧作業が進められており、開通に間に合うよう努める」と、とりあえず廃止する意向にはないらしい。「全線開通が4月」という情報も地元の方のサイトにあったが、新聞報道では「復旧工事は進めているが再開の見通しは立っていない。」と=報じられている。情報が錯綜しているようだ。