赤字ローカル線の"受益者"である鉄道マニアの限界。

 水害で不通になる前から悲惨な状況だった三江線で考えてみたが……より続く。
続いて、

 されるべき判断がなされず、"死に銭"が垂れ流しされているという状況はいかがなものか。私は島根県民でもJR西日本の株主でもないが、自分の払っているカネが回り回ってムダなことに使われるのは不可解であり(以下略)

と結論らしい文言を書こうとしました。"公共の福祉"より"鉄道の経済性"に重きを置く、そうした醒めた視線からローカル線問題を語るというスタンスは昨今珍しくありません。いや、ここ10年ほどはそうした見方が共有されるようになっています。80年代の鉄道趣味界というと、どこか"国鉄至上主義"みたいなものが支配的であったわけですが、そこからようやく離脱できたのかもしれません。
 ただ、鉄道マニアである自分が、鉄道を巡る諸問題について「べき論」で語るのは無理です。


 なんだかんだ理屈をこねて偉そうなことを言って、「赤字ローカル線は残せ。地域住民のことを考えろ」とか「採算とれないなら廃止やむなし。残す必要なし」とか、それぞれのスタンスでそれらしい結論を出すのは簡単です。
 ただ、"現実社会を生きる自分"とは別に、"鉄道マニアである自分"というのも一方では存在しています。廃止されるような施設にはいろんな郷愁や浪漫、懐古趣味、希少性が漂っている訳であり、自分も含めたマニアは、永年、それらを追い求め、体験し、享受してきたわけです。
 種村直樹が80年代前半に「廃止路線に飛びつくようなマニアはけしからん。オレは行かないゾ」と啖呵を切った後、「廃止予定線や廃止予定車両を追っかけているマニアはクズである」という言説がマニアの間でも飛び交うようになりました。そうした考え方に一理あるというのも頭では納得しています。

懐古趣味や限定商法を"消費"する快感と後ろめたさ

 でもねえ。マニアな人がそこまで言い切れる自信ってどこにあるんでしょうか。
 "廃線オタク"を批判する人でも、ちょっと古めの車両を追っかけたりするでしょう*1。鉄道マニアって、潜在的には子供時代に見た"鉄道風景"へのノスタルジーを抱えています。「消えゆく(可能性のある)ものを求めていく」という意味では、廃線間際に現地を訪れる人も、D51を求めて内房線でオイタをする人も、日にち限定のイベント列車を追っかけることも、限定品の模型やグッズを集める人も、駅のホームで国鉄型や釣りかけ電車を待ち受けている人も、基本的な思考回路は同じですよ。
 そんな"非日常な鉄道空間"に魅了されている自らを否定することなんて僕にはできません。
 ローカル線の赤字額なんかを説明されると、ああもうダメダメだなあとは思いますよ。納税者や鉄道利用者として鉄道経営を考えてみると、不可思議な事象が多すぎる。そして、廃止間近になってトラブルが頻発しているだろう現地を訪れることが迷惑だというのも理解はできます。
 でも、廃止と聞くと、なにかマニア心が疼いてくる。時刻表をひらけばいつでも出会えたはずなのに、廃止の翌月号からは抹消されてしまう。やっぱりもう一度現地を訪問しておきたくなるんですね。
 そんな"理性"と"欲望"の狭間で揺れ動きつつ趣味活動をやってきました。で、廃止になりそうだから……と言って、この一年間、西鉄宮地岳線鹿島鉄道くりはら田園鉄道神岡鉄道桃花台新交通富山港線などなどを回ってきました。廃止騒ぎに便乗して、懐古趣味や限定商法の"消費"を繰り返している自分に幻滅することもあります。ならば、せめて他者の不幸を"消費"する後ろめたさを自覚した上で、その所作を相対化して......

 と、突然、話を飛躍させた(分裂させた?)ところで、ローカル線ネタもこれでおしまいにします。三江線の話はどうなったのか......というのは言いっこなし。ブツブツ文句を言いつつも、一部区間が復旧したのだし、近いうちに再訪すると思います。三江線の存在価値に疑問を投げかけていたのに、それを享受しようというのは全く矛盾しています。そんなときの"言い訳"も考えてはいるのですが、それはまた別の話。

*1:廃線マニアを批判していた種村だって、廃止予定線や廃線跡系の本の"編者"になっている。どういう風の吹き回しだったのだろう。