鉄道マニアが求める"世界観"。そして物語の不在

katamachi2007-03-13


 昨日の文章は無意味に長いなあ。まとめれば、

  • <1>「鉄子の旅」は、鉄道関連書籍としても最近稀なヒット作である。しかも、鉄道趣味人の本流から外れたマンガ雑誌(しかもマイナー)から出現してきた。
  • <2>エッセイマンガというスタイルはマンガ界で一つのジャンルとなっている。本作もその手法を踏襲している。
  • <3>"鉄道マンガ"は過去にも存在したが成功したとは言えない。物語として完成されていない上に、描き手も読者も不在だった。

ということです。作品の外枠をぐるぐる廻っていただけで、作品については全く触れていません。エッセイマンガなんだから、描き手である菊池直恵の絵柄と語り口を楽しめばイイのだろうけど……それは次回に2007-03-14の「鉄子の旅 6」(後編)に続く。
 とりあえず、昨日のネタを叩き台にして別な話を展開してみます。内容は、「鉄道マニアが求めているのは、物語ではなく、"世界観"である。創造主も<大きな物語>も持たないまま、オリジナルの"物語"を自分で生産して消費してきた」ってところです。

"鉄道を使って旅をする人"は主人公になりうるか。

 "鉄道"という舞台は、映画やテレビなどあらゆる表現で多用されている。リュミエール兄弟の「汽車の到着」を取り上げるまでもなく、「どこかへ移動する」という行為それそのものがドラマになりうる。多くの人間が交錯する現場に立ち会う"鉄道員"という存在も、物語の主人公として魅力的な存在だ。マンガでも、「銀河鉄道999」みたいにSFや異世界物の要素を盛り込めば様々な物語を展開できうるだろう。海外旅行を題材にしているなら"異世界との遭遇"というエッセンスを活用できる。
 ただ、"鉄道を使って旅をする人"は主人公になりうるのか。彼らは、なにかを作り出すとクリエイターではないし、自らが電車を動かす才能を持っているわけでもない。実際、鉄道で国内を旅行していても刺激的な事象に出くわすことはほとんどないし、現実の体験から物語を組み立てるのはかなり難しい。前川つかさボクの駅弁漂流記 (上) (アクションコミックス)」のようにマニア以外にも興味を持たれやすい"駅弁"や"地元の温かい人たち"をテーマとするのも一つの手である。テレビの鉄道旅番組や2時間ドラマと同じ路線を狙うのだ。あるいは、TBS系で2007年4月より放映される金曜ドラマ特急田中3号」のように恋愛ベースで成長譚を描くか……いや、それらはやはり違う。
 その違和感は言葉にしにくい。
 ただ、こちら(=私≒鉄道マニア)が、求めている"物語"というのは、作家や演出家たちが紡いで提供してくれる物語とは全く別物である。欲しいのは、"鉄道"という存在にアプローチし、把握するために必要な"世界観"である。現実の鉄道とは無縁の架空の出来事や人物なんて必要としていない。

鉄道マニアが求めている"世界観"と"二次創作"

 では、なぜ鉄道マニアがフィクションである物語を必要としないのか。
 ここで大塚英志「物語消費論」を引用してみよう。1983年に「おたく」という言葉が初めて使われた現場に立ち会った人物の著作で、オタク及びオタク産業を把握するために欠かせない一冊でもある。
 大塚は、本書の冒頭p.7で

今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての<物>ではなく、記号としての<モノ>を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する<モノ>が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ<モノ>に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

と指摘し、オタクたちが、商品を背後で支え、秩序立てている<世界観>(=<大きな物語>)を消費していく状況を事細かに解説してくれる。大塚が「文庫本あとがき」p.324で「今日のサブカルチャーやネット上のコミュニケーションが未だ『物語消費』の延長線上にある」と苛立ちをこめて回顧しているように、ここでの議論は今日でも通用するだろう。
 これを鉄道マニア及び鉄道趣味を語るのに援用してみると、構造が見えやすくなる。
 私(≒鉄道マニア)は、物語による感動を求めているのではなく、大好きな"鉄道"を巡る自分オリジナルの世界を作り上げたいだけである。必要なのは、自分が鉄道を理解する上で必要な基礎情報、たとえば鉄道を運営している会社や車両、駅、歴史、経営......などなど鉄道の背景にある"世界観"である。だからこそ、鉄道雑誌やネットで知らない情報を手に入れたり、あるいはSLや国鉄型車両などの消えゆく物を写真で納めることに奔走したり、グッズや模型、鉄道備品をたくさん集めようとしたりする。
 そうしたパズルを組み合わせて、「オレしか知らない鉄道の真の姿」すなわち"世界観"を求めていく過程は、鉄道趣味という活動そのものになる。この過程を経ることで、ただの鉄道利用者とは異なるアプローチをとることが可能になる。さらに、こうしたウンチクを頭に蓄えた上で、他人が知らない極秘情報を探し出そうと努力する。あるいは、自分の"世界観"が優れていることを他者に誇示すべく、知り得た情報の開示(自慢とも言う)も試みる。
 また、自分の得たデータベースを元に、"鉄道の二次創作"*1の組み立ても試みる。
 今、オレの目の前に"鉄道"が走っている。でも、本来の"あり得るべき世界"はまた別の所にあるのでは。そして、自分が編み出した"世界観"で、理想的な鉄道像とは何かを語ろうと試みる。「●▲駅に特急を止めるべきだ」とか「この新車はイマイチ」とか、あるいは「△□鉄道を廃止するのは反対!」とかなんとか。時には、「ここに新車が入らないのは●▲が反対したから……」とか情報の裏側に潜む(と思っている)陰謀をも想像する。
 他ならぬ私も、ここで今里筋線三江線鹿島鉄道をネタに独り語りしてきたが、それも同じ範疇になる。鉄道マニアが鉄道の経営や運営、システム、歴史を語る行為は、評論や研究と言うよりも、むしろ二次創作活動に近いものに見える。現実のしがらみの中にいる鉄道と、僕らが夢見る"鉄道"とは別物である。その代表的な語り手である(と本人が自覚しているかどうか知らないが)川島令三が登場したのは1986年。オタク産業において二次創作(同人誌)が一つのジャンルをなし、大塚が「物語消費論」での論考を始めた時期と重なる。

鉄道マニアは、何十年もの間、自ら"物語"を紡ぎ、そして消費してきた

 もっとも、鉄道という"大きな物語"を共有している住人は、細分化が進みすぎたからか、あるいは"世界観"を語るノウハウが確立させていないからか、それぞれの自意識を融合させることに苦慮しているようにも見受けられる。70年代のSLブームからブルトレブーム、ローカル線ブームを経る過程で鉄道趣味のジャンルが広がりすぎて、全てのシーンを把握するのが難しくなった。筒井康隆の言葉を借りるなら、(鉄道趣味の)「浸透と拡散」が起きているのだろう。1975年の日本SF大会で「SFの浸透と拡散」と提唱されたこの言葉は、その後、あらゆる分野で顕在化していく。市場が拡大し、ジャンルが細分化されていくことで、核となるアイデンティティーが見えにくくなり、同じ趣味人の間でも共通言語が失われ、そして……
 いや、違う。そもそも鉄道マニアたちはそれぞれの間で"大きな物語"を共有していない。
 大塚は前掲著で<世界観>と<大きな物語>を同義で扱い、「消費されているのは、一つ一つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。」(前掲著p.14)と喝破している。「見せかけに消費してもらう」(同p.14)素材として商品を支えるドラマは存在するが、「<物語ソフト>離れは今後起きることは十分予想できる。」(同p.50)とも。そして、「<世界>の創造者、管理者としてのゲームマスターたる人材」(同p.39)が必要なことも指摘している。
 ただ、鉄道趣味ジャンルの場合、<物語ソフト>は存在しない。鉄道というシステムを作ってくれた会社や工事の人や関係する人々は存在するが、それは交通輸送機関を整備するために行っただけである。なにも鉄道マニアの消費を考慮して鉄道を造ってくれたわけではない。そして、<世界>の創造者ももちろん存在しない。
 大塚は、前掲著の冒頭の論考「世界と趣向−物語の複製と消費」の最後をこのように締め括っている(同p.20)。

 <物語消費>の最終段階とは、<商品>を作ることと消費することが一体化してしまうという事態を指す。もはや生産者はいない。自らの手で商品を作り出し、自らの手で消費する無数の消費者だけがいる。それが記号としての<モノ>と戯れ続けた消費社会の終末の光景なのだということだけは、しっかりとここで確認しておこう。

 そうした生産者不在の中で趣味活動を行うというのはなかなか大変なことである。現実には考えにくいし、もちろん大塚も皮肉を交えていただけだ。だが、鉄道マニアは、何十年も前から、自分でゼロから鉄道にまつわる"物語"を作り上げ、それを消費していかねばならなかった。特に、新人類やスキゾと格闘せねばならなくなった80年代以降。これはなかなか辛い作業だ。
 私は、以前から、鉄道とアニメとマンガを趣味対象としてきたのだが、なにか「オタク」と「鉄道マニア」との間には相容れない壁があるように思っていた。特に、関東で起きた連続幼女誘拐殺人事件の後である。広義で言う「オタク」は「マニア」とほぼ同じ意味に扱われていて、野村総合研究所オタク市場の研究」では、幸いにも鉄道マニアも仲間に入れてもらっている*2。また、「鉄道オタク」という言葉が2000年ころから若い層を中心に蔑称をこめて一般化してきたのも承知している。だが、オタクと呼ばれることに、なにか居心地の悪さを感じてきた。それは、狭義の「オタク」と「鉄道マニア」では、先に示したように、物語を消費するそもそもの方法論が違うからであろう。
 さて、そんな自明なことを語ることに何の意味があるのか...という理屈も考えていかねばならないのだけど、それはまた別の話。

*1:二次創作物とは、消費者が、既存の漫画やアニメなどの物語や世界観を元にして自身で想像して制作した独自の創作物のことを指す。オクタ産業における同人誌がその代表的なものだ。

*2:しかし、鉄道マニア消費層が2万人 とか14万人ってのは実感と異なる。こんなに少ないのかなあ……