なんだか身につまされた「酒井七馬伝」。

katamachi2007-03-17

 この週末、本来は東北に行くつもりでした。3/16発の特急「日本海3号」で秋田へ向かい、3/17はキハ58の運行が終焉を迎える花輪線を巡り、湯瀬温泉の民宿か旅館で一泊。翌日は、くりはら田園鉄道にちょこっと寄って、開業初日を迎える仙台空港鉄道仙台空港アクセス線を訪問する.....というのがその計画。キップは、周遊きっぷの「田沢湖十和田湖ゾーン」。3370円で花輪線北上線も「こまち」も乗れるというお得感いっぱいのキップで前から使ってみようと思っていたんです。「日本海」はもちろんプルマン式のA寝台! 10,500円の価値があるのかどうか疑問ですが、もはや二時代前の天然記念物のブルトレですよ。
 で、3/15の夜、家から歩いて5分ぐらいの某駅に行ったんですが、半ば予想していたとおり、何十分待っても子会社から派遣されて職務を担当している駅員さんが発券できなくて……まあ、最初から半ば無理かなあとも思っていたし、あれだけ業務量が多ければ発行できないのも仕方ないのだろうか。選択肢としては、社員さんのいる別の駅に行く、キップの予約をして明日取りに来る、翌朝、別の駅員さんが来たときに出直す、という3つがありましたが、なんだか面倒になって旅行そのものをヤメちゃいました。
 ゆえに、今日は読書の時間に充てました。中野晴行謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影」の再読。

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

 面白かったです。結局、2/27に、Amazonではなく、旭屋書店の本店で買ったので、「酒井七馬伝」をAmazonで5000位以内にする運動の役には立てなかったのですが……
 酒井七馬って、『新宝島』の酒井七馬って、実在の人だったんだ……でも書いたんですが、手塚治虫やマンガ史にちょっとでも関心がある層には気になる存在でした。W藤子不二雄たちも絶賛していた「新寶島」の著者として手塚と一緒に名前を連ねていながら、1950年以降、急速に拡大していくマンガ市場では、ついぞ名前を見ることのなかった人物。手塚と酒井との間柄が微妙であったとも伝えられています。そして、最後はコーラを飲みながら餓死で息絶えたとも…… なんだかその悲運ぶりは、よく似た名前の天馬博士(もちろん「鉄腕アトム」の生みの親)を彷彿させていました。
 そんな中途半端な知識と関心で読んだからこそ、驚きの連続でした。えっ、戦前、日活の京都太秦のスタジオでアニメ映画を作っていたとか、大河内伝次郎と関係があったとか、終戦直後にカトスリ雑誌やマンガ雑誌を発行していたとか。そして、手塚と酒井との関係、「新寶島」を巡る様々な衝突についても、新たな資料や逸話を持ち寄りながら丁寧に解きほぐしていきます。大阪のボロ出版社での2人の共同作業は一瞬だったかもしれないが、その邂逅によって戦後マンガ史の行く先は変えられていったのかもしれない。
 個人的に興味深かったのは、「新寶島」以降を描いた第三部です。50年代は紙芝居に活躍の場を求めるが、1965年頃、とっくに斜陽産業となっていた。酒井は日本漫画家協会大阪支部総会に参加して再び意欲を見せるのだけど、手塚を助けるんだと言って「オバケのQ太郎」の絵コンテを切ったとか、若い娘をマンガの弟子入りさせたと周囲に吹聴してみたとか、奈良ドリームランドでのマンガショーでの実態とか、紹介された一つ一つのエピソードが......読んでいて複雑な印象を与えてくれる。酒井の抱いていた臆病さ、躊躇い、そして諦観というか、そうした気持ち、なんとなく理解できます。やっぱ私が大阪出身だったからかな。著者の中野も40歳代まで大阪で文筆業をやっていたようだし、そうした意味で酒井に共感するところがあったのだろう。
 ちなみに、酒井が戦後の住まいとし、手塚と出会った桃谷という街は、大阪市の中心街からやや外れた文化住宅が密集している雑然としたところです。彼の終の棲家ともなったのですが、それから13年後、また別のクリエイターたちが集まるエリアとなります。SF専門店ゼネラルプロダクツ、後に「王立宇宙軍オネアミスの翼」や「新世紀エヴァンゲリオン」を作り出すガイナックスの前身です。まあ、両者の間には"桃谷"という街以外、なにも共通性がないんだけどなあとも思うのですが、それはまた別の話。