岩手鉱山を目指して力尽きた東北鉄道鉱業と北岩手鉄道。そして岩泉線

katamachi2007-05-16


 さて、前回2007-05-15 日本粘土鉱業岩手鉱業所のDLが11年ぶりに稼働。の続きです。
 この鉱山は、岩泉線浅内駅から12kmほど国道340号を葛巻沼宮内方面に行ったところの、岩手県岩泉町名目入(旧小川村門)にあります。現在も露天掘りをしているらしいのですが、見物している限りではその痕跡は見当たらず、坑内の様々な施設は赤錆びていました。まだ三井が鉱業権を持っていることもあって、事務所には職員さんが常駐しているようです。閉山と共に人口減も著しく、小川地区の人口は3000人にまで落ち込んでいるようです。
 そんな岩泉町小川地区門(かど)にも以前は鉄道を敷く計画がありました。
国は鉄道敷設法で門と小鳥谷(こずや)・茂市を結ぶ予定線を取り上げていました。そして、1920年代には、鉱山系の会社が小鳥谷〜葛巻〜門間の鉄道の建設工事に着手していて、一部で路盤が完成していた地点もあります。トンネルを掘削した痕跡もあります。
 そこらの経緯については、フォトライターの杉崎行恭氏が「鉄道廃線跡を歩くV(10)」p.54で報告されている。これによりマニアにもその存在が知られるようになった。
 今日は、この岩手鉱山を巡る東北鉄道鉱業と北岩手鉄道という2つの未成鉄道について言及してみたい。

鉄道廃線跡を歩く(10) 完結編 (JTBキャンブックス)

鉄道廃線跡を歩く(10) 完結編 (JTBキャンブックス)


鉄道網から外れた岩手鉱山を本格的に稼働させたい

 さて、現在は三井金属鉱山岩手鉱業所と名乗っている岩手鉱山の施設。もともとは日本粘土鉱業岩手鉱業所を引き継いだものでした。
 名称の経緯はややこしいんですが、最初は岩手炭鉱。続いて岩手窯業鉱山となり、戦後、岩手窯業→日本粘土鉱業と変わります。採掘していたのは耐火粘土と亜炭(今でも露天掘りはしているようですが……)です。最終的に引き継いだ石見鉱山が1996年に坑内堀を取りやめ、閉山することとなりました。で、今は三井金属鉱業の直轄なんです。

 ただ、そもそもの歴史は江戸時代の南部藩が統治していた時代に歴史は遡るんですね。南部鉄を鋳鉄する過程で、岩泉町小川門から出る耐火粘土を混ぜて精錬していたらしいです。
 この耐火粘土という鉱物(?)、瀬戸や多治見などで採られ、陶磁器に使われるケイ石のことかと思っていたんです。でも、耐火温度1580度以上という素材の特性を活かして、製鉄所の高炉に耐火レンガとしても使われているらしいんです。その国内最大の産地だったのが岩手鉱山だったわけです。大正末から昭和の始めにかけてその本格的操業が検討されていきます。
 ただ、岩手鉱山を近代的な鉱山として起動させるには問題があった。小川村門(岩泉町)というのは鉄道網から途絶した山間にあり、採鉱した耐火粘土を運び出す手段がなかったわけです。せめて鉱山のある葛巻町小川地区から宮古港までの移送手段を確保する必要があった。ただ、当時のトラックや道路の規格は今日と比べるとかなり低かったんでなかなか思うようにいきません。
 当時は製鉄業は満州方面からの輸入物(主に鉄鋼業における高炉の耐火レンガに使われた)にほとんど依存していましたが、できれば国内の鉱山を開発したい。そこで、小川村門と省線との連絡を図って鉄道を敷設することになりました。東北鉄道鉱業国鉄小本線(岩泉線)の2つです。

東北鉄道鉱業は小鳥谷〜葛巻〜門間で鉄道工事を進めるが

 最初、企画されていたのは、小鳥谷(東北本線→IGRふるさと銀河鉄道)〜葛巻〜小川村門(岩手炭鉱)〜茂市(山田線)を結ぶ77kmの鉄道敷設免許を取得していた東北鉄道鉱業でした(免許時は"東北鉄道"名義)。逓信省より免許されたのは1922年のことです。続けて小鳥谷〜葛巻間、そして葛巻〜門間の施工認可を受けて、工事に着手します。これとは別に沼宮内葛巻を結ぶ馬車鉄道の免許を持つ会社も別途にありました。
 その後、東北鉄道鉱業は、工事の可能性が見込めない門〜茂市間の免許を失効させてしまいますが、残りの区間については工事を継続していきます。1929年には増資を果たしますが、北上高地を横断する50km以上の路線を建設するのは、一鉱山会社の手に負える物ではありません。後に岩手炭坑鉄道と名称を改めますが、1941年に免許権を失っています。茂市と門を結ぶ貨物索道が完成して山田線経由で輸送する手段を確保できたというのがその理由。でも、現在の葛巻町・岩泉町内にはその痕跡がたくさん残っているんですね。その報告については、「廃線跡を歩く」の杉崎のレポート、ホームページだと一戸町商工会の報告、そして個人だと、隧道探検隊「東北鉄道鉱業線 岩上隧道」幻の廃路「東北鉄道鉱業」が詳しい。
 
小川地区にあるトンネル工事の跡
○東北鉄道鉱業→岩手炭坑鉄道の歩み

1921年5月 会社設立(当初は東北鉄道)
1922年4月 鉄道敷設法改正で、小鳥谷〜葛巻〜落合(浅内)〜袰野(小本)間、
落合(浅内)〜茂市間が国の予定線に組み込まれる
1922年5月 東北鉄道鉱業は小鳥谷〜葛巻〜門〜茂市間の免許取得
1925年8月 小鳥谷〜葛巻間の施工認可
1927年9月 門〜茂市間23kmの免許失効
1928年3月 葛巻〜門間の施工認可
1941年7月 岩手炭坑鉄道(名称変更)は小鳥谷〜葛巻〜門間54kmの免許失効

小本線(岩泉線)と岩手鉱山を結ぼうとした北岩手鉄道計画

その一方、国・鉄道省は、山田線経由で現在の岩泉町を結ぶ鉄道の企画を検討します。それが1942年に茂市〜岩手和井内が開業した小本線。現在の岩泉線です。1944年には押角駅、1947年に宇津野駅(廃止)、1957年には浅内駅まで完成します。

今は人家もなく無人の状態の押角駅も貨物で賑わった

 資材不足の戦中、そして終戦戦後で新線建設がままならない中、小本線の建設が他線に優先して進められた理由はただ一つ。岩手鉱山の耐火粘土の産出をスムーズにするという至上命題があったからです。製鉄所を稼働させて行くには、国内有数の産地である岩手鉱山と国鉄網を結ぶ鉄道を建設する必要がある。そのような判断があったのでしょう。当初、貨物扱い限定の路線であったことがその全てを象徴しています。
 ただ、浅内駅までが完成したとしても、そこから岩手鉱山のある小川村門まで14kmもあります。そこでこの間を連絡するために、岩手窯業鉱山(当時の名称)は鉄道の敷設を検討します。当初は1943年に浅内〜小川村横道・門を結ぶ専用鉄道として免許されましたが、1952年に普通鉄道として改めて免許を受け直し、別会社の北岩手鉄道に免許権を譲渡しています。その背景には海外からの輸入が途絶えて(戦前はほとんど満州からの輸入に頼っていた)耐火粘土の確保が急務だったということもあります。
 でも、やっぱり山あいを結ぶ鉄道って建設が難しいです。本体の岩手窯業鉱山が鉄鋼不況で倒産したこともあって、この鉄道も実現に移すことかないませんでした。トラックの性能向上なんかもあったのでしょう。最盛期には月産1万トンの採掘を行っていましたが、もう60年代になるとトラック輸送で十分という雰囲気になってしまいました。浅内駅まで運べば後は国鉄小本線改め岩泉線の貨物列車が運んでくれるわけだから。いや、わざわざ貨車に積み替えなくても直接、港や工場に運んだ方がもっと便利になる。岩手鉱山のために広大な構内側線を抱えていた浅内駅もいつしか賑わいを失い始め、貨物売上減→合理化で貨物営業の廃止→駅の無人化という道を辿っていきます。

岩手鉱山からの鉱石の積み込み駅だった浅内駅
 その後、円高、人件費高騰、海外産の輸入.....などお決まりの経緯があって日本粘土鉱業の経緯が悪化。三井系の石見鉱山?によって1996年に閉山したというのは最初に述べたとおりです。

○小本線(岩泉線)と北岩手鉄道の歩み|1942年6月|小本線茂市〜岩手和井内間が開業|

1943年 岩手窯業鉱山が浅内(?)〜大川村横道の専用鉄道免許取得
1944年7月 小本線岩手和井内〜押角間が開業(貨物のみ)
1947年11月 小本線押角〜宇津野間が開業
1948年 岩手窯業鉱山が鉄道計画を再検討
1952年5月 岩手窯業鉱山が浅内〜大川村横道の免許取得
1952年9月 北岩手鉄道が岩手窯業鉱山から免許譲受
1954年9月 岩手窯業鉱山が事実上の倒産→日本粘土鉱業へ
1957年5月 小本線宇津野(廃)〜浅内間が開業
1965年5月 北岩手鉄道が浅内〜大川村横道の免許を失効

参考した書き込み

で、関西の人間がなぜに岩泉町の鉱山を気にしているかと言うと.....

 さて、ここまでヨソ者がなぜに岩手鉱山にこだわるかと言うと、ちょっと苦い思い出があるんです。
 2000年頃、全国各地の明治から大正、昭和、平成に至るまでの免許失効線を集めた「鉄道未成線リスト」を作成した際、ここに登場する「東北鉄道鉱業」、「岩手窯業鉱山」、「北岩手鉄道」という会社の正体と関係と経緯がイマイチよく分からなかったんです。運輸省の地下倉庫に免許時の経緯をまとめた簿冊があるのは知っていたのですが、ある著名な鉄道研究者の方が作成されたリストの示す棚には該当する文献が見当たらなかったんです*1
 仕方ない。結局、心残りを抱えながら、2001年8月に発表したのが拙著「鉄道未成線を歩く (私鉄編) JTBキャンブックス」(私鉄編、JTB)。ここらの話についてはp.189に載せています。リストに間違いはありませんが、なんだか分かりづらい表記になっているのはそんなわけです。
 まあ、今回、現地を訪ね、土地勘と経緯を把握できたので、ようやくリターンマッチできました。ただ、こうした地域の鉄道史ってブログで書くような内容なんだろうか.....との躊躇いがないわけでもないのですが、それはまた別の話。

*1:省庁再編の関係で開架はストップしていましたが、現在、これらの文書は整理されて国立公文書館に移管されているので、たぶん閲覧することは可能だと思います