大阪市の「市営モンロー主義」と大阪府の存在

katamachi2007-06-26

 夏のコミックマーケットに当選しました。サークル名は"とれいん工房"で、8月19日(日)の西地区"む-28b"です。刊行する本は「鉄道未成線を歩く4 大阪市交通局篇」(仮題)の予定。ただいま、千日前線の校正作業の途中です。
 で、大阪市の地下鉄の歴史を語る上で、一番興味深いのは、地下鉄千日前線阪神西大阪線近鉄難波線の免特許を巡るやりとりでしょう。大阪市は、近鉄阪神、それに京阪や南海が市内に乗り入れようと申請したのに反発。両者の対立は深刻なものとなっていきます。

「市営モンロー主義」という言葉は阪神社史と川島令三によって広められた

 そんな、戦前以来の「市内交通の市営一元化」(以下、市営一元主義)を目指す大阪市に対する批判が、民鉄首脳や識者から加えられます。。
 あれから半世紀近く経った今、結果的には「市営一元主義が最善の策ではなかった」ということを様々な面から指摘できます。地下鉄運賃の高さ、サービスの悪さ、私鉄との乗換の煩雑さ、大阪市の政策にがんじがらめになった無駄な新線構想……などなど。とにかく大阪市が計画する交通政策は市内相互間における流動についてばかり重点が置かれ、市外から市内への流動についてはあまり配慮されてこなかった。高度経済成長期に、大阪都市圏における通勤圏が市外にまで拡大していったのになかなか対応できなかった。とりあえず「大阪市営」の地下鉄なんだから、市外の人間なんてどーでもいいやっていうのならそれまでだが、もう少し大阪府なんかと協調できなかったのかと思わないわけではない。
 そんな大阪市の施策を揶揄する表現として「市営モンロー主義」という言葉があります。さっき、検索していたら、Wikipedia市営モンロー主義という項目があり、それを読んでみたのですが、「犠牲」とか「煮え湯を飲まされた」とか「悪評」とか、百科事典とは思えない表現が多いんです。複数の執筆者がいるんでしょうが、なんか川島令三をベースとした史観に偏っているんですよね。
 この言葉、もともと「阪神電気鉄道八十年史」(1985)で使われた造語です。
 明治末ころ、阪神電車の市電乗り入れを画策する阪神本社に対し、市内交通を独占する立場にあった大阪市は反対し続けました。それを揶揄する表現として、阪神の社史の編者が使用したのでした。「モンロー主義」とは、一九世紀半ばから第一次大戦までアメリカの外交政策の基本となった不干渉主義(アメリカ一国主義)のことで、それを借りて大阪市の内向けの施策を皮肉ったのでしょう。
 これが鉄道マニアの間でもある程度知られたのは、川島令三が自著の中で繰り返し使用した影響があったからです。もっとも本人はこの言葉をきちんと定義をしておらず、どういう意味で利用しているのか分からない。おそらく「大阪市は自分のことばかり考えていて、私鉄の計画を妨げた(ゆえに大阪市内の鉄道は利用しづらい)」と主張したいのでしょう。阪神社史の編者があえて明治末の乗り入れ問題に限定して使っているのと比べるとかなり大雑把な把握をしているようです。
 なるほど、現在の交通網を見ている限り、市営一元主義に問題があったというのは否めません。

戦前、市営一元主義は政府からも市民からも支持された

 ただ、阪神社史が大阪市を「モンロー主義」と批判するのは、両者の利害が対立する立場にあったからであり、それを後世の人間が無批判で追認するのはどうかと思います。というのも、当時の新聞を紐解くと、市会や世論は市営主義政策に賛意を示し、民鉄の都心乗り入れを批判し続けていたからです。
 大阪市が、市内交通の一元化を目指したのは、

  • (Ⅰ)大阪市は道路の整備や費用を担当しているし、市内電車も公共団体の手で担うべきである。
  • (Ⅱ)公共投資など歳出が膨張しているのに、税源が脆弱な当時の地方財政システムでは歳入増にも限界がある。電鉄事業は大阪市にとって格好の財源になる。
  • (Ⅲ)利益追求を求める民間が市内電車を運営するのは問題である。
  • (Ⅳ)公共的独占事業であり、市が担当するのも容易。

という4点です。1903年大阪市は軌道の許認可権を持つ内務・大蔵大臣に対して陳情書を提出しているのですが、すでにその意図はここに示されています。
 当時、大阪市東京市に次ぐ日本第二の都市として独自の政策を展開しようとしたのですが、その実現は容易ではありませんでした。地方自治体が確保できる独自税源はほとんどなく、国税に付加する零細な税項目で細々と徴収するに留まった。人口増に対応するための水道や教育、土木などの行政需要に充当しようにも、あるいは独自で築港工事や道路工事を実施しようにも、それ対応するための財源を確保できませんでした。だからこそ、大阪市電の事業から上がる利潤を都市計画事業に投入しようとしたのです。
 そもそも大阪市民も、市営一元化を歓迎していました。

  • 市電の運賃は、民鉄よりも安い
  • 統一料金になっているから、市電ネットワークと繋がっている方が便利
  • 民鉄の経営者って胡散臭い

ってのが当時の感覚でしょうか。それだけ大阪市に対する信頼が高かったんです。その中心となったのが、東京商大からやってきた関一市長。今の市長のご先祖様です。
 でも、戦後、事情が変わってくる。その原因となったのは、大阪市でも民鉄各社でもありませんでした。トラブルの元となったのは大阪府でした。
 先日、国立公文書館大阪市関係のいろんな文書を閲覧したのですが、建設省文書の中で、大阪府赤間文三知事が1949年11月に建設省に対して提出した「軌道敷設特許並びに地方鉄道敷設免許申請について」という書類があるんですが、それが凄いんです。大阪市に対する罵倒を繰り返している。
 戦前の大阪府は、大阪市の市営一元主義に対してある程度理解をしていて、鉄道省に対して出している副申書でも配慮を行ってきました。川島もWikipedia執筆の諸氏も勘違いしているのですが、鉄道新線の免特許を判断しているのは大阪市ではなく、鉄道省運輸省だったわけです。大阪市が市営一元主義を唱えようとも、政府の支持がなければそれが実現することもない。そして、政府の地方出張所的存在だった大阪府も、都市計画事業の必要性を訴える大阪市の意向を尊重していたわけです。
 だが、1947年、地方自治法が公布され、大阪府地方公共団体となって府知事が公選されることで、事情が変わってきました。大阪府大阪市がそれぞれの権限、財源を巡って対立し始めたのです。当時、大阪市は特別市になることを目指していました。現在の政令指定都市以上の財源・権限を持つ自治体になろうとしたのです。周辺の市町村の合併も目指していました。となると、大阪市大阪府からあらゆる意味で自立してしまうのです。そうした大阪市の様々な動きに対し、大阪府は猛反対していくのです。その一つが、先の文書に繋がるのです。
 つまり、「市営モンロー主義」は、戦前、政府や大阪府や市民にも支持されていたけど、戦後、大阪府大阪市の対立の材料とされた。それは、地方公共団体の制度が変化していく過程での権限と財源を巡る争いであった。必要以上にこの問題がクローズアップされた背景にはそんなところもあったわけです。それが解決されるのは、1958年の都市交通審議会答申三号まで待たねばなりません*1
 まあ、大阪市の中心区への通勤流動のほとんどが大阪市民で占められていた60年代初頭までは市営一元主義でも通用したのだけど、70年代以降には明らかにこの施策が破綻していたのは確かです。
 あのとき必要だったのは、

というポイントに対する処方箋でした。で、そうした課題は21世紀になった今でも解決していません。そんな歴史的な過程をマニアの方にも理解して欲しいなあと思うのですが、それはまた別の話。

*1:でも、大阪市立中央図書館にあるこの時の議事録を見ると、大阪府知事、自分では一円カネを出さないのに、あそこに新線作れとか何とかうるさいんだよなあ。