今でも文字通り"陸の孤島"となっている船浮集落へ行く。

katamachi2007-11-08

 沖縄県西表島の西部にある船浮(フナウキ)という集落に行ってきました。西表島というと2000人を越える人口を抱えており、島の南北を結ぶ県道がきちんと整備されており、毎年何百万人ものの観光客が訪れる一大観光地となっています。なのに、この船浮というところだけには道路が繋がっていないんです。Googleマップだと、ここらへん。


"陸の孤島"って表現は聞こえは悪いですが……

 "陸の孤島"という言葉がある。
 はてなダイアリーの解説だと、「陸続きの場所なのに交通アクセスが悪く、周辺都市から孤立した場所」とされている。
 道路のメインルートから外れている場所、大都市に隣接しているのに駅から遠いところ、地形上の制約で他集落へは大回りを強いられている地域......etc、どららかというと比喩的な意味合いで使われる。自虐的に自称しているのか、他者が蔑称として使っているのかその区別は付きにくいし、ここで具体的な地名を挙げると語弊があるかもしれないので差し控えておく。でも、鉄道や旅行が好きな人間なら「ああ、あそこなんてまさにそうだよな……」と思いつく地域はあると思う。
 一方で、他地域と陸路で結ばれていない、文字通り「陸の孤島」となっている地域も存在した。高度成長期になっても自動車走行可能な道路が繋がっていなかった地域.....というと日本列島の北と南にあった2つの集落を思い出す。

  ※札幌からクルマで1時間半ほどの雄冬崎がある周辺。この国道231号のルートは今ではオロロンラインの一部として札幌と稚内を結ぶ動脈ともなっているが、全通したのはかなり最近になってから。1980年までは雄冬と増毛を結ぶ定期船が一日1往復往き来するだけで、完全に陸上交通網から遮断されていた。1980年に留萌〜雄冬間が開通し、翌年に札幌側とも通じるが、その1ヶ月後に崖崩れで再び不通となる。それが今では長距離バスも走るようになったのですな……

  ※沖縄本島の最北端の辺戸岬近くの集落。那覇から120km、山を覆うように林が広がっている通称「山原」(やんばる→田舎の意)の最も奥の部分に位置する。鹿児島と奄美那覇を結ぶ国道58号の沖縄側の起点となっているが、ここまで未舗装の道路が伸びたのは1940年代。一周道路が完成してバスが走るのは1962年(念願の北部一周道路)になってからで、それまでは"山原船"と呼ばれる船が往き来していた。海上交易でしか他地域と交流できなかった時期が長かったこともあって、山林の管理や農耕作業、集落唯一の店舗である奥共同商店の出資・運営なども住民全員が共同で行っている。"原始共同体"とも言える経済システムが今日でも残っており、民俗学や地理学、経済学などあらゆるジャンルから注目されている。ヤンバルクイナが人家の近くに出現することでも有名。4年前に奥集落の民宿へ行く道すがら、レンタカーで轢いてしまいそうになったことがある(^^;)

船浮集落へ行ってみた

 60年代だと他にもトラックやバスが走れなかった集落はまだまだあったとは思うが、少なくとも今日ではそうした道路困難は解消されているのだと思う。
 ところが、沖縄県南端の八重山諸島にある西表島の船浮集落は、現在でも「陸の孤島」のままになっている*1
 船浮という集落が存在することを初めて知ったのは10年ほど前のことだが、これは西表島に隣接している小さな島のことだと勘違いしていた。でも、よくよく調べてみるとそこは西表島の西端に位置しており、島内の他集落とは一応、陸続きになっているということが分かった。にもかかわらず、白浜まで道路は到達していない。船浮の人口が極めて少ないこと、山が険しくて道路の建設が技術的にも経済的にも難しい*2ことなんかもあったのだろう。
 そんなわけで、ここへ行こうとすると、今でも船を利用するしか選択肢はない。昔は白浜港で船をチャーターしたり、地元の方の船に便乗するしかなかったようだが、今では船浮観光の定期船が一日4往復運航されている。

 僕が今回訪れたのは11月1日、八重山諸島の旅の最終日だった。上原港近くの民宿を8時ころに出てレンタカーで白浜地区へ向かった。港の側にクルマを停めて波止場で待っていると、白い小さな船が近づいてきた。船浮海運の「ふなうき」だ。8:25に接岸する。
 想像していたより大きく、船内の座席は30人分ぐらいはあったと思う。ただ、乗り込んできた客は私、そして地元関係者と思われる方が2人。興味深いのは、船浮からやってこられた女性の方が「船浮小学校」と書かれたアルミ製の箱を持っていたこと。サイズから推測するに給食で使われた食器でも入っていたのだろうか。やってきた船長さんから切符を買い求める。片道410円。キップは軟券ではあるがきちんと印刷されてたタイプだ。
 定刻8:35がくると、アイドリング状態にあったエンジンがフル稼働し始める。海岸と船を結ぶ縄を外せば出発の時間である。
 西表島の海岸線に囲まれた内湾であるため、波は穏やかで揺れも小さい。子供のころから三半規管が弱くて、4日前の鳩間航路に乗ったときも船酔いして●▲をしてしまったのだけど、今日は時間も短いし、なんとか持ちこたえられそうだ。
 かつて炭坑やトロッコもあったという内離島を眺めていると、前方に船浮港と集落が見えてきた。到着は8:46。10分ほどの航海は終わった。
 岸壁に降りたときの感想は、「意外に整備されている集落だな……」。
 港の前には真新しいログハウス風の観光施設があるし、周囲には2階建てのコンクリ建築がいくつか見える。しかも、ここは他の集落と隔離された"陸の孤島"であるはずなのに、港では軽トラが数台、待機している。岸壁で大規模な工事をしているのだ。工事の人たちも何人か作業をされており、ショベルカーが動き回っている。現場に立てかけられた看板を見ると、バリアフリーに対応すべく浮き桟橋を新設しているらしい。その工費は2億7千万円。地域や町、県の取り組みで街並みも変わってきているのだろうが、正直、これまで他の旅行者から伝え聞いてきた"秘境&陸の孤島 船浮"という言葉から思い描いていたイメージとは違っていた。

祭りの準備で大わらわだった船浮集落

 とりあえず集落でも見ていこうか。デジカメ片手に歩き出すと、突然、「広場に集合してください」との有線放送がかかる。えっ、なに??。そういやさっきから住民らしい方が何人か話し込んでいるのを見かけた。今日はなにか集会でもあるのかな??
 やがて船浮御嶽(うたき 沖縄土着の神が宿る宗教施設)の側の芝生に男性中心に15人ぐらいが集まり、そして輪の中心にいた年配の方の号令のもと、各自が動き出す。やや言葉が聞き取りにくかったのだが、どうもお祭りの準備を始めるらしい。そうか、節祭を船浮でもするのか。
 節祭(シチ)とは、農作業の上での年代わりである"正月"となる"節目"に行われる西表独特の大祭のことである。豊かな実りを感謝すると共に、翌年の豊作、住民の健康や発展を願って行われるもので、西表島"本土"の祖納集落と干立集落で行われるのが有名だ。
 2007年の場合、今日11月1日が"おおみそか"で祭りの準備の日にあたり、明日11月2日が"正月"で祭りの本番の日に当たる。それは地元紙の八重山毎日新聞を見ていたので知っていた。祭りは国の重要無形民俗文化財に指定されている祖納&干立でのみ行われると思いこんでいたけど、船浮でも実施するということらしい。だからなのか、昨日、集落唯一の民宿での宿泊を断られたし、今日も港にある食堂も記念館も全て閉鎖されている。数少ない観光客にかまっているヒマはないのだろう。
 グループは4つぐらいになって、別々の作業をやっている。邪魔にならないように、公民館の片隅で、見物していると、祭りの責任者らしい方から「兄ちゃん、ヒマなら手伝わんかい」(関西弁で意訳)と、なぜか突然呼び出される。祭事で使われる"まとい?"を組み立てるのに、棒を支える人間がどうしても一人足りないらしい。人口は決して少ないし、本当にネコの手でも借りたいという状況なんだろう。カバンをガジュマルの樹の脇に置いて、いまにも落ちてしまいそうな花飾りを支えるのに走り出す。

 てなわけで、30分ぐらい、言われるがままに雑草抜きやら片付けやらのお手伝いをして過ごす。あれ? オレは祭りとは無縁な(というか存在すら知らなかった)ただの観光客なのに……
 後で手の空いた地元の方と話す機会があった。

  • 11月1日は準備だけ。学校が終わればこどもたちも加わって住民総出で設営、練習に取りかかる。夜通し、ゆんたくしながら明日の"正月"を迎える
  • 石垣や那覇へ移り住んだ人たちも何十人か船浮に帰ってくる。外部の人が島に泊まるのは難しい
  • 2日が節祭の本番になる。観光客もやってくるらしい

ということらしい。
 う〜ん、本番は明日か……西表のどこかに泊まって、明日、もう一度船浮に出直してこようか。"陸の孤島"最大の祭りを見物できるチャンスは二度とない。でも、石垣空港16時半の便で関西空港へ戻らねばならない。えーい、帰りのチケットを捨ててしまおうか......とも、何度か思ったのだけど、明日は大阪で先約がある。レンタカーも返さないといけない。
 仕方がない。予定通り10:35発の便で戻ることにした。帰りの乗客は私一人。そりゃそうだろう。住民たちはみんな祭りの準備にかり出されているのだから。
 でも、白浜港へ戻ってみると、総勢15人ぐらいが船の到着を待っていた。服装や荷物、会話から想像するに、お祭りに参加する竹富町の関係者、そしてテレビカメラで撮影する研究者の一団らしい。いいなあ、この人たち、今晩、船浮に泊まって、明日の"正月"を迎えるのか.......楽しそうに船へ乗り込むグループを羨ましげに見つつ、駐車場へ向かった。
 この後、祖納&干立集落にも行ってみたのだけど、両地区ともまだ祭壇の準備をしている段階だった。きちんと下調べしてから八重山に来ていれば日にちの調整もついただろうに……と後悔することしきりだったのですが、それはまた別の話。

船浮にまつわるエトセトラ

 で、祭り当日の様子を伝える八重山毎日新聞の記事。
 

人口約50人が住む西表島船浮集落の節祭り(シチ)が2日、「かまどま広場」をメーン会場に行われた。祭りは早朝「船浮御嶽」の司・古見八重子さんによる祈願の後、正午から舟漕(こ)ぎに参加する東西各11人の青年らによる「ヤフノテ」が正午から公民館前で始まり、その後、船浮湾で2隻のサバニによる舟漕ぎ、パチカイ(漕ぎ手東西各代表による司への報告、口上)、顔を黒布で覆った3人のアンガーによる古謡、青年たちの棒術8演目、最後に獅子舞いと続き午後1時に儀式が終了。その後は特設ステージで余興が行われ、午後2時過ぎに全行事を終えた。
郷友も駆けつけ節祭 西表船浮 舟こぎ、奉納芸能で熱気八重山毎日新聞、2007-11-04

 以下は自身の備忘録も兼ねて船浮の情報についてまとめてみた。

  • 人口45人程度(現地の人の話)。竹富町立船浮小中学校がある。この敷地は、あのイリオモテヤマネコが初めて"発見"された土地でもある
  • 昔は外洋航路を行く船が給水などで立ち寄ったこともあった。近くの内離島という島には炭坑があった。そのためか船浮には日本軍の要塞も設けられた。炭坑は敗戦のころに稼働停止したらしいが、今でもトロッコのレールが残っているらしい。内離島は、南大東島のサトウキビ鉄道、那覇のモノレール赤嶺駅より緯度は南に位置している。すなわち現在の日本領土において一番南に位置する鉄道廃線跡となる。

  • 一時期、廃校&廃村の危機にあったが、1985年に琉球真珠が進出して黒蝶真珠養殖場をつくり人口はちょっぴり増えた(新聞記事)
  • 2002年?ころから観光施設も整備され、2004年からはツアー客が訪れるようになった。民宿で営業しているのは1軒だけらしい。
  • 集落から10分ほど歩いたところにビーチがあって、浜茶屋っぽい店が2軒やっていた。港から荷物を運び込むのに軽トラを使っているのに遭遇した。陸の孤島で実際にクルマが動いているのを見るのはかなり希有なことだったのかもしれない。
  • 集落の外れから水を引いているので、蛇口をひねれば美味しい地下水を飲むことができる。DoCoMoの携帯電話は圏外になっていたが、なぜかau、沖縄セルラー電話の「西表船浮無線基地局」が集落の外れにあった。ちょっとびっくり
  • 行き方は、石垣港から安栄観光か八重山観光フェリーの高速船(2320円)で西表島上原港へ。そこから両社の無料送迎バスor西表交通バスで終点の白浜バス停に向かう。
  • 白浜港からは、船浮海運の小型船「ふなうき」(1996年製、定員35名、9.4トン、18ノット)で3.5km、10分。一日4往復で片道410円。http://ogb.go.jp/kohyo/kourozu/kouro5.htm
  • 船浮の先に崎山、鹿川という集落もあったが明治〜昭和初期に廃村となった。1971年に廃村となった網取には東海大の研究施設があって船浮海運の船が週に1便やってくる。ここに真珠の養殖場を造る構想もあるらしい

2007-11-09定期便廃止間近の波照間空港へ行ってみた。
2007-11-09波照間空港の備忘録
2007-11-08今でも文字通り”陸の孤島”となっている船浮集落へ行く。
2007-10-24日本最南端を飛ぶ琉球エアの波照間線が11月で廃止される

*1:この表現、使っていいものなのか微妙とは思うが、日本トランスオーシャン航空のホームページでも堂々と「西表島の陸の孤島 船浮で遊ぶ」とあるし、問題はない......よね?

*2:そもそも西表島の幹線である沖縄県道215号白浜南風見線が開通したのが1977年とかなり遅かった。それまでは北部と南部の集落を結ぶ道路は断崖絶壁で遮断されていた