大田区蒲蒲線構想と京浜電気鉄道五反田線

katamachi2007-11-14

 おお、知らないうちに蒲蒲線に新しい動きが出ている。

 約800メートル離れている東急・JR蒲田駅京急蒲田駅の付近をつないで、渋谷方面と羽田空港を直結させる鉄道構想「蒲蒲線」の実現に向けて、大田区は新たな需要予測調査を始めた。10月には国土交通省、都、東急、京急などとの勉強会が発足し、具体的な運行方法や課題を整理する場ができた。10年秋の羽田空港再拡張をにらんで区は取り組みを加速させる。
「蒲蒲線」取り組み加速朝日新聞、2007年11月14日

 ポイントは、

の5点。大田区は、パンフを配って区民への告知を始めて署名活動を展開……って、まだまだ何も進んでいないということか。「取り組み加速」と見出しを打った割には中身のない記事でした。
 この蒲蒲線、1000億円のカネを投じる構想の割にはそのメリットが見えにくい。目的として掲げられたのは「渋谷方面と羽田空港を直結させる」だけか。京急蒲田駅と東急蒲田駅を連絡することのメリットはなんとなく理解できるし、あればそれなりに便利だと思う。でも、地下新駅での乗換が便利になればなるほど、蒲田地区はただ通過されるだけの街となりかねない。この新線で大田区と住民たちにどのような効果があるのか、もう少し丁寧な説明が必要なのかもしれない。
 でも、それ以前に「蒲蒲線」という名前、これをなんとかしてくれませんかね。「かまかません」って字面も語感もなんだか違和感が……。フツーに「蒲田線」ってのでいいような気がするけど……

蒲蒲線の前身である京浜電気鉄道五反田線の歩み

 この京急蒲田駅と渋谷区方面を結ぶ短絡線を形成する「蒲蒲線」構想。今回の計画自体はここ十年ほどのことであるが、実は、大正時代や戦時中にもその原型となる構想があり、実際に当時の鉄道省より免許を受けていた。京浜電気鉄道東京急行電鉄の五反田線(京浜蒲田〜五反田)である。
 京急の前身である京浜電気鉄道は、1905年に品川(八ツ山橋 現、北品川駅付近)〜川崎〜神奈川間を開業させるが、新橋〜横浜間で快速運転を始めた官鉄に対して絶対的な優位に立つまでには至らなかった。ターミナルである品川停留所の立地の悪さもその一因だった。東京鉄道(後の市電)の八ツ山停留所と離れており、乗換が不便だった。
 そこで、

  • 1908年特許【青山線】品川〜白金猿町〜目黒〜青山南七丁目間 
  • 1912年特許【千駄ヶ谷延長線】青山南七丁目〜千駄ヶ谷間→1926年に白金猿町青山南七〜千駄ヶ谷間が失効
  • 1923年申請【大手町延長線】高輪南町(品川駅)〜赤羽橋〜南佐久間町〜大手町間(地下鉄)
  • 1925年却下【新橋延長線】高輪南町(品川駅)〜汐留間(地下鉄)
  • 1926年申請【五反田線】京浜蒲田〜五反田間7.7km、五反田〜田町間
  • 1937年設立【京浜地下鉄道】京浜と湘南電気鉄道・東京地下鉄道の直通構想

と次々と都心延長構想を打ち出すのだが、どれも中途半端に終わってしまい実現はしていない。このうち、蒲蒲線の原型となる構想は五反田線になる。

 京浜電気鉄道(以下、京浜)が五反田線京浜蒲田〜五反田間7.7kmの電気鉄道敷設免許を申請したのは1926年5月、続けて9月に五反田〜田町間を追加申請している。この時点での京浜の考えは、五反田で1号線(現在の都営浅草線)と接続し、東京都心への連絡ルートを確保しようというのである。この内、蒲田〜五反田間だけが認められ、1928年5月に免許が下付されている。国立公文書館鉄道省文書を見ると、五反田と京浜蒲田の間には、四ッ塚、蛇窪、宮下、小母沢の4駅が予定されていたということが分かる。
ただ、京浜は五反田延長線の着工を先送りする。肝心の東京市の地下鉄が五反田まで延伸する時期が全く読めないこともあった。延長線と同じ蒲田〜五反田間では、池上電気鉄道が、蒲田〜目黒間には目黒蒲田電鉄が既に営業を始めており、両社間の競争は熾烈を極めていた。そこに京浜が割り込むのは素人目にも難しい。
 その後、京浜蒲田〜五反田間の免許は、1942年に東横電鉄が京浜と小田急を買収した際、新生の東京急行電鉄に引き継がれている。
 さて、戦後、旧京浜線は「京浜急行電鉄」として東急から分離していくのだが、その後も五反田線の免許は東急電鉄が保持したままになる。京急に五反田線の免許を渡してしまうと、いつの日か東急線の並行路線として浮上してくるかもしれない。そうした争いの根を摘み取りたかったのだろう。最終的には、東急は五反田線の免許を1958年2月に失効させている。
 この免許が抹消された背景には、都市交通審議会が1956年に答申1号を出して東京1号線(浅草線)を五反田から馬込方面へ延伸する構想を示したことがあった。この路線が京浜急行が免許を持つ持つ蒲田〜五反田間、そして東急が希望していた五反田〜品川間の計画(旧池上電鉄の白金延長構想)を継承する形になる。その後、1962年の答申で地下鉄6号線(都営三田線)を田町(三田)から泉岳寺、五反田を経由して西馬込まで延長させる案が浮上したり、東急池上線との相互直通運転構想が浮上したり、ここらの鉄道構想はややこしい変遷を経ることになるのだが、それはまた別の話。

戦時中は「大東急」が蒲蒲線の建設を検討していました

 さて、京浜→京急の五反田地区への延伸は取りやめとなるのだが、その一方、戦時中の1942年8月、東急は、京浜穴守線蒲田と東急目蒲線蒲田とを結ぶ1.0kmの免許申請を行う。いわゆる「蒲蒲線」である。
 これは蒲田・穴守地区への工場通勤者の便を図り「産業戦士輸送ノ円滑ヲ期」すること、そして省線を乗り越えて両線を連絡することを目的と掲げていた。その免許の暁には、先の五反田線については免許の取り消しを申請したいともしていた。翌1943年には東京市長名が計画を評価する旨の文書を東京府土木部長宛に届けている。
 ただ、この計画に関しては免許は見送られた。古くからの市街地で鉄道建設が困難な点、京浜線と東急線のゲージが異なる点などが災いしたのであろう。戦後、穴守線(空港線)と国鉄蒲田駅を結ぶ貨物線が敷設される。米軍の貨物輸送に供するためだが、1952年までに終了している。
 なお、京浜蒲田駅とJR蒲田駅を結ぶ蒲蒲線の構想は大田区に引き継がれている。89年から検討され、2000年の答申18号で羽田空港へのアクセス機能の強化の一環として盛り込まれている。これを受けて、大田区は2004年度から調査を実施している。羽田空港東武東上線西武池袋線方面との連絡、蒲田地区と渋谷・池袋方面へのアクセス向上を期待しているという。都市鉄道等利便増進法を利用し、東急多摩川線矢口渡駅〜東急蒲田駅間、京急空港線大鳥居〜東急蒲田間に地下線を敷設し、両線は地下駅で連絡することになる。工費1080億円、利用者は毎日6・3万人を予定している。
 ……というのが、ここ80年ぐらいの蒲蒲線を巡る鉄道未成線事情となります。ここらは昨夏に刊行した「鉄道未成線を歩く 関東泡沫篇」からの抜粋。またヒマができたらリライトしてきちんとした形で刊行したいと思うのですが、先日、コミックマーケットから冬コミの落選通知が来てしまったんですよね。コミケでサークル申し込みを始めて15年は経つのにそれでも落選してしまうのか……なんだかいろいろボヤきたいこともあるのですが、それはまた別の話。<参考>
西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その1)
西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その2)