大阪市営地下鉄の梅田駅"幻のトンネル"と2面4線化構想
最近、鉄系のはてなブックマークで話題となっているのが「地上の地下鉄」というサイト。「帝都高速度交通営団 地下には謎があって色々空想してしまいます。が、地上にもこんなところが・・・」として、東京メトロ、いや営団地下鉄の建設の過程で残された"謎の空間"についていろいろ紹介されています。例の「帝都東京・隠された地下網の秘密」についてもアイロニカルに批評されている。地下鉄って、地下空間に閉ざされて写真が撮りにくい上に、路線や車両のバラエティーにもやや欠けるので、これまで鉄道マニアでも、あまり趣味の対象になっていませんでした。ネットだけでなく、商業誌や書籍などでも研究は手薄です。それゆえに貴重な報告です。
そうした"幻のトンネル"の話題で気になったのは、「新橋駅「幻のホーム」を12月に公開 東京メトロ」という朝日新聞の記事。例の新橋駅の幻のホームが12月に特別公開されるというのです。「機動警察パトレイバー2 the Movie」で台場に繋がる第三軌条線として登場した所ですね。廃線マニアとして、そして押井守ファンとしてもかなり興味あるんですが、その日はたぶん海外にいます。残念。
地下鉄の建設って、昔も今もカネがかかるんで、造ったからにはそれを効率的に使おうとする。計画路線以外の余分なスペースが構築されるというのはほとんどないんです。
でも、ないというわけではない。自分の地元の関西だと、大阪市交通局の地下鉄にも"幻のトンネル"が存在します。御堂筋線梅田駅の隣接した場所に谷町線が乗り入れる予定になっていて、その空間が一部でトンネルとして構築された……というは関西のコアな鉄道マニアの間では有名な話です。それは後に御堂筋線ホームの拡幅工事に使われた(以下の写真は旧線の線路跡部分)。
ただ、その伝承には一部で史実と異なる点がある。そこらをくどくど説明しようというのが今日のお話し。
梅田駅は方向別2面4線のホームになる予定だった
鉄道マニアの間で伝承されてきた梅田駅の"幻のトンネル"にまつわるエピソードはこんな感じだろう。
Wikipediaの大阪市営地下鉄御堂筋線 梅田駅を見ると、
1933年(昭和8年)に仮駅で開業、1935年(昭和10年)に本駅が完成した。当時は1両での運行だったが、将来の輸送量増加を見込み、当初から(当時の車両の大きさで)12両編成対応で造られた。もともと上り線と下り線は同じトンネル内にあったが、ラッシュ時には改札制限まで行っていた混雑を解消するため、太平洋戦争前から2号線(谷町線)用に準備されていたものの同線の建設ルート変更に伴い放置されていたトンネルを転用して下り新ホームが造られ、1989年(平成元年)に完成した。
とある。大阪市交通局にとって地下鉄1号線(御堂筋線)の輸送改善問題は永年の課題となっていた。コンコースからホームにかけてのスペースが乗降客の割には手狭であったためで、その改良工事に"幻のトンネル"スペースが転用されたのだ。
ただ、この夏、自分の同人誌を執筆するために国立公文書館や大阪市公文書館で資料を調べたところ、鉄道マニアの間で伝承されてきた「谷町線用に"幻のトンネル"が設置された」というエピソード。1箇所、史実と違うところがあった。
この"幻のトンネル"のデッサン図が国立公文書館の鉄道省文書に残されていた。建設時の昭和初期のものである。大阪市が、1933年8月に鉄道省へ提出した文書では、
原設計ニ於テハ梅田停留場ニ於テ連絡スベキ一号、二号路線ヲ乗客ノ乗換ニ最モ都合ヨキ方向別配線トナシ、将来二号線建設ノ際大ナル変更工事ヲ避クル為、両線ノ交錯部分ハ二号線ノ一部モ同時ニ敷設シ、●クヲ有利トシ、之ガ施工ノ認可ヲ得タルモノナリ
と元来の設計の趣旨を語っている。
この当初の梅田駅の工事計画を見ると、
- 方向別2面4線のホームになる設計で、ホーム有効長は10両分(ただ旧型車の車両長にわせた設計であり、現在の18m車で換算すると8〜9両分に相当する。Wikiの"12両編成対応"というのは誤認)
- 御堂筋線・旧二号線の北行で1面2線、南行で1面2線のホームを並べる構造で、御堂筋線と四つ橋線の電車が並ぶ大国町駅とよく似た構造だった
と、両線の乗換客がスムーズに移動しやすくなるための配慮も考えられていた。来るべき将来の地下鉄網をイメージした壮大な構想だったことが分かる。
ただ、夢は大きくても現実は思うようにいかない。金融恐慌→昭和恐慌という時代背景の中、1号線(御堂筋線)の完成すら危ぶまれている。完成時期未定の旧二号線にカネを投じていられる余裕はない。鉄道省から定められた1933年10月の竣工期限に間に合いそうもない。
そこで、大阪市は御堂筋線の計画を見直しすることを決め、1933年5月に工事方法変更の認可を受けている。梅田駅での方向別ホーム構想を中止し、施工の容易な路線別ホームとすることにしたのだ。
ただ、御堂筋線開業に梅田駅工事の完成は間に合わず、1933年5月の梅田〜難波間開業時点では、梅田駅は仮駅での営業を強いられることになる。本駅が竣工するのは1935年10月になってからである。
梅田駅"幻のトンネル"はどのようになったかというと……
梅田駅の"幻のトンネル"の概略図を下に示す。
現在の梅田駅御堂筋線ホームは、当初計画だと1号線と2号線の北行きホーム(現在だと新大阪方面)に相当する。そして、未成に終わった"幻のトンネル"は南行きホーム(天王寺方面)ということになる。そんなわけで、これまで伝承されてきた「谷町線用のトンネルとして三六年に完成した」(たとえば大阪日々新聞のここの記事)という説明と史実は異なるのだ。
1933年に工事が中止された時点で、旧二号線の未竣工区間は558m、そして駅部分のトンネルのうち69mは完成していた。このスペースは後に、
- 1939年10月に梅田駅の北側のトンネル内に梅田検車場が開設。未完の南行きトンネルには、各種器財倉庫や修理機械、作業員室などが設置
- 1954年に検車場が移転した後は駅の冷風設備や電気室が設置
というように使われていた。
ただ、70年代になって御堂筋線梅田駅の全面的な改築が行われることが決まる。梅田駅の乗降客は1日50万人を越え、朝ラッシュ時の1時間に7万人が集中していた。乗車客、下車客の流れが駅構内で錯綜していたため、改札制限がたびたび行われるなど深刻な混雑状況になっていた。
そこで御堂筋線電車の10両化が決定したのにあわせてコンコースもホームも大幅に拡張されることになった。その際、旧二号線用に準備されていた"幻のトンネル"69m分とその前後の未竣工スペースがホーム幅の拡張に活かされることになった。
工事が着手されたのは1983年、1989年11月から新ホームの供用が始まる。「幻の二号線ホーム」は新・梅田駅南行ホーム(天王寺方面行き)として日の目を見ることになった。1932年の工事施行認可から57年の月日が流れていた。
谷町線が梅田駅乗り入れを中止した経緯
さて、2号線、現在の谷町線であるが、その後様々な経緯があって東梅田駅を使用することになる。
当初、大阪市は森小路(現在の関目高殿)から梅田経由で松屋町筋を通って天王寺に至るルートを検討していたが、戦後、都市交通審議会の答申を受けて、1959年に梅田〜天満橋〜天王寺間などの特許を受ける。
この段階では、まだこの「幻のトンネル」を活用する前提でいたのだが、結局、谷町線(新・二号線)の"梅田駅"は梅田駅から300mほど離れた曾根崎警察署前へ移すことになり、1961年11月にルート変更の許可が出た。東梅田駅は1967年に開業するが、旧の梅田駅ホーム部分は使用されなかった。さらに、天神橋筋六丁目〜南森町間のルートも中津経由から中崎町経由に変更されている。その理由は、
- 50年代、梅田界隈では次々と商業ビルの建設が進められていた、旧二号線のトンネルを活用して地下鉄を建設するならば、そうしたビルの基礎部分を避けて設計せねばならない。ところが、大阪市が新たに特許を受け直して、実際に調査してみると、天六から阪神北大阪線沿いに中津、梅田駅予定地を経て南森町に至る地下空間を確保することは難しいことが分かった。
- 戦前の計画通り御堂筋線と旧二号線のホームを隣接した場所に置くと、ラッシュ時にホームとコンコースに乗換客が交錯して深刻な混雑と混乱を招きかねない。
- 天六〜南森町間で、東海道本線・阪神北大阪線・阪急線・国鉄大阪駅の四路線と交差することになっていたが、その施工のために各社との設計協議と巨額の資金を必要となる。
の三点。そこで、
- 梅田駅の"幻のトンネル"を放棄し、曾根崎警察署前に谷町線用の「新・梅田駅」を設置する(現在の東梅田駅)
- 梅田駅と東梅田駅の間に大阪地下街株式会社の地下街を造る(1963年完成 ホワイティーうめだ)。
- 旧計画「天六〜北野・茶屋町〜梅田駅〜扇町〜南森町」を新計画「天六〜中崎町〜東梅田駅〜西天満〜南森町間」に変更(距離が690m短縮し、交差鉄道は大阪環状線のみ。梅田付近の工費が4割も抑制)
ということになったのだ。1961年までに変更を求めた申請が認められ、1967年に谷町線東梅田〜谷町四丁目間が開業する。
この谷町線の建設に際しては、「南海平野線との相互直通構想」とか「瓜破や八尾への延伸を巡る千日前線や南海との調整難航」とか「尼崎や大阪南港、城東区、高槻、金剛、藤井寺...etcへの延伸を求める関係者との論争」とかいろいろ逸話もあるのですが、それはまた別の話*1。
*1:ホントは僕の本を買ってください……と宣伝したいのですが、もう在庫がないんですよ