6年前に書いた"大阪外環状線"未成線ルポ

katamachi2008-01-18

 次に出す同人誌用に、京阪神系の官営鉄道・国鉄未成線ネタをかき集めています。
 タイムリーな話題なのは、大阪外環状線改め、おおさか東線。建設区間である新大阪〜放出〜久宝寺間のうち、放出〜久宝寺間のみ2008年3月開業が予定されています。
 年末から103系、201系、223系あたりを使って試運転・習熟運転も始まっているらしい。実家が片町線沿線にあって放出での工事は逐一見てきたし、1981年の国鉄時代にいったん建設決定の報道がなされたときからずーっと注目してきたこともあり、感慨深いものもあります。片福連絡線(JR東西線)と並んで、僕の未成線趣味の原点となる路線でもあります。そんなこともあって2002年に刊行した商業本でも、当然、この話題を取り扱おうとしたのです。ただ、スペースの関係で城東貨物線旅客化の話はほとんど割愛せざるを得なかった。
 大阪外環状線の建設経緯をまとめると以下の通り。<参考>大阪外環状線おおさか東線ネタ
大阪外環状線は「おおさか東線」 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
6年前に書いた"大阪外環状線"未成線ルポ - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
橋下徹大阪府知事、大阪高速鉄道と大阪外環状鉄道の廃止・売却を検討する - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

おおさか東線。構想から80年の幻の通勤電車線の年表

  • 1929年 城東貨物線吹田〜放出間開業
  • 1931年 城東貨物線放出〜平野間開業
  • 1937年 布施町が周辺町村と合併。その中で城東貨物線の旅客化を訴える
  • 1939年 竜華操車場開業。正覚寺信号場(加美駅の北側分岐点)との間に線路開通。これで城東線(大阪環状線)の貨客分離施策の完成
  • 1952年 城東貨物線客車運行促進同盟会が結成。陳情活動
  • 1952年 阪和貨物線八尾・竜華〜杉本町間開業(戦中より八尾〜瓜破間で側線として取扱あり)
  • 1958年 都市交通審議会の答申三号で尼崎〜吹田〜放出〜加美〜杉本町〜大阪南港間が採択
  • 1960年 同盟会は城東貨物線電化客車運行促進連盟に改組
  • 1963年 都市交通審議会の答申七号で新大阪〜放出〜加美〜杉本町間が採択
  • 1965年 国鉄は第三次長期計画で新大阪〜放出〜加美〜杉本町間を盛り込む。1969年度に城東貨物線区間を複線高架化した上に全線で電車運行開始予定。阪和貨物線区間については当初は単線での運行。1975年度に高架複線化の予定。この年、阪和貨物線経由の特急「あすか」運転。貨物線を行く初の定期列車だったが極度の不振でわずか2年で廃止
  • 1970年 目標年次に達したが、新大阪駅付近の用地買収、放出〜蛇草信号場(JR長瀬)の単線高架化が完成、出戸駅付近の区画整理で用地確保……した程度で計画は行き詰まる
  • 1981年 突然、大阪外環状線新大阪〜加美間18.6kmの建設が運輸大臣に認可される。時の運輸大臣塩川正十郎
  • 1982年 国鉄の投資中止を決定した閣議決定でほとんど何もせずまま工事中止。大阪府大阪市は大阪鉄道網整備構想の中で、加美〜出戸〜泉北ニュータウン日根野間の新線構想を打ち出すがリアリティーは皆無。これで阪和貨物線旅客化は事実上中止に
  • 1984年 ヤード系貨物輸送の解体で吹田・竜華の操車場の事実上解体。城東貨物線経由の貨物の激減
  • 1986年 阪和貨物線での定期貨物列車の運行終了。臨時特急「ふれあい紀州路」が京都〜奈良〜阪和貨物線〜和歌山〜新大阪間で運行開始。
  • 1987年 国鉄分割民営化
  • 1991年 地元自治体とJRの間で、関西高速鉄道大阪外環状線の建設主体にする合意が交わされる。
  • 1992年 その方針と「一九九三年度着工、二〇〇〇年開業」が確認
  • 1994年 会議で費用負担やスケジュールに相次ぐ混乱。想定利用者数も極めて低い数字が上がってくる。関西高速鉄道を建設主体せず別会社を造ること、加美終点でなく久宝寺の乗り入れを決める。
  • 1995年 年末予算折衝で建設にゴーサイン
  • 1996年 大阪外環状鉄道が設立され、一二月、同社が新大阪〜放出〜久宝寺間の第三種鉄道事業者免許を取
  • 1998年 南側の放出〜久宝寺間を先行して開業させる案が浮上
  • 1999年 大阪外環状線都島〜久宝寺間の工事施行が認可
  • 2001年 河内永和付近の高架化はかなり本格的に。俊徳道〜新加美の単線区間の調整に苦慮
  • 2002年 大阪外環状線(仮称)新大阪〜都島間の工事施行が認可。環境アセスの関係で新大阪駅周辺での路線は高架線との切り替えが求められる→梅田貨物線と共有化する方針を占める
  • 2008年 放出〜久宝寺間で部分開業予定
  • 今後  放出以北は開業年度が2011年度末と想定

といったところが、その背景か。
 で、正直、旧国鉄→JR共に自分でハードの建設をしてまで運営主体とは思っていなかった。メリットはあまりないし採算性にも自信がない。大阪市中心部を通らないルートにも議論が集まる。
 ごり押ししていたのが大阪府東大阪市と関係する政治家。1981年に一度認可されたときの運輸大臣東大阪市を地盤とする塩川正十郎。2000年前後にややこしくなっていたときは財務大臣をも務めた。戦前、初めて貨物線の旅客化を唱えた布施町の有力者は塩川の父親。後の布施市長である。そうした政治的なしがらみが背景にあったのは否めない。大阪市今里筋線建設に関心を移して外環状線構想に冷淡だったのと比べると、対応は正反対だった。一部新聞は外環状線を「政治路線」と揶揄している。

大阪外環状線を歩く(ただし6年前の2002年1月)

 さて、没原稿をフォルダーから見つけてきました。ただ、2002年刊行の商業本にスペースの加減で使えなかったルポ原稿。今から6年前の現場にタイムスリップして大阪外環状線の建設ルートを辿っていきましょう。

                                                                          • -

 外環状線のうち、完全な新線区間新大阪駅から淡路駅にかけての区間になる。
 新大阪駅には、現在の下り一八番ホームの隣りに、外環状線新設用のスペースが空けられており、現在、JR西日本バスの駐車場として使用されている。順番で行くと、ここが一九・二〇番線*1になる。東淀川駅付近ではまだ用地買収を終えていない箇所もある。
 神崎川を越え、吹田市内に入ってしばらくすると、東海道本線から右にカーブしていく空地がある。ここは七〇年前後に確保されていた土地である。西吹田駅を通過して五〇〇mほど行けば、城東貨物線の現在線と合流する。ここから鴫野付近までの築堤部分は建設時から複線分の路盤が確保されている。
 もう一度、神崎川を渡れば、大阪市淀川区に戻る。新幹線の下を潜って、阪急線京都線・千里線と交差する。ここには淡路駅が設けられることになっているが、阪急淡路駅とは三〇〇mほど離れていて乗換は不便そうだ。
 やがて貨物線は淀川にさしかかる。ここの赤川橋梁も、二九年の開通時から複線トラス橋になっていて、東側のみ貨物線として使用し、西側は人道橋になっている。案外、人や自転車の行き来があるのは、淡路地区と都島区・旭区を結ぶ無料の橋はここ一本だけだからだ。

 都島駅は、八二年に廃止された都島信号場の跡地に予定されてい。同名の地下鉄谷町線都島駅とは二kmほど離れていて乗換駅ではない。京阪線と交差する地点には野江駅が設けられる。

 ここから鴫野駅を経て放出駅までは、現在の片町線と並行して高架橋が敷設される。鴫野駅付近は、片町線が高架化された六四年以来、旧地平線の空間が外環状線用に空けられている。
 だが、鴫野駅の西側で片町線(高架)をクロスするようにして路盤を構築するのは難しく、難工事が予想されている。鴫野駅以東では一部で用地買収が完了しておらず、全線開通のためのウイークポイントになっている。
 放出駅のホーム改良工事は〇一年に終了し、現在、二面四線になっている。外環状線は二・三番線に乗り入れることになる。駅の東側には、八二年段階で橋梁が架けらており、現在は森ノ宮電車区放出派出所の引込線として使用されている。

 放出〜高井田〜河内永和間*2は、七〇年に設置されスラブ高架橋の隣りにもう一本高架橋が増設されることになった。この工事は〇一年一〇月に完了している。永和からは築堤区間であり、これまた複線分の路盤は確保されているが、架道橋などは増設の必要がある。
 この間、外環状線は、高井田で地下鉄中央線、永和で近鉄奈良線、俊徳道で近鉄大阪線と連絡する。三駅とも東大阪市内にありながらも、南北軸を貫く交通機関がないため、相互の移動は不便であった。だからこそ外環状線が期待されたのだが、逆に、どれだけの需要があるのか関係者にも読み切れていないようだ。


 築堤は柏田駅が予定されている蛇草信号場の手前で終わり、信号場以南は、貨物線内唯一の地平区間になる。中小工場や住宅が線路と接するように軒を連ねているので、現在線の上にスラブ高架橋を敷設することになっている。すでに地元住民への説明会は終わっており、近い将来、貨物列車の運行を止めて大がかりな工事が始まるのだろう。

 そして、正覚寺信号場のあった地点で、貨物線は平野方向と、旧竜華操車場(八尾)方向に分岐している。外環状線は竜華への短絡線を経由することになるのだが、ここは列車の通過がなくなった八六年以降、踏切部が閉鎖され、レールも切断されていた。取材時には、大阪市教育委員会の手で遺跡の発掘調査が行われており、土の中から土器らしいモノが顔をのぞかせていた。
 関西本線沿いに一・五kmほど行けば、終点の久宝寺駅である。

*1:ここは東淀川駅周辺で地平線での建設が批判されたため、後に梅田貨物線を新大阪駅に乗り入れることになった

*2:新駅は、高井田→JR高井田中央、河内永和→JR永和、俊徳道→JR俊徳道、柏田→JR長瀬、加美→新加美とされた