コソボ紛争の始まった1998年。クロアチアから新ユーゴへ旅したときのこと

katamachi2008-02-09

 セルビアのサマルジッチ・コソボ担当相は8日、国連暫定統治下にある同国コソボ自治州が17日に独立を一方的に宣言するとの見通しを声明で明らかにした。
コソボ、17日に独立宣言か 首相「100カ国が承認」朝日新聞、2008年02月09日
http://www.asahi.com/politics/update/0205/TKY200802050402.html

 ついにあと一週間ほどでコソボは独立してしまうのか。情勢が急展開したのは昨年の12月頃。ちょうど僕はアフリカにいたのですが、帰りのミラノ経由の飛行機で配られた英字新聞でコソボの独立問題が特集されていてじーっと見入っていたのを思い出します。
イタリアとコソボアドリア海ボスニアを挟んで400kmしか離れておらず、宮崎駿の「紅の豚」(舞台は第二次戦前の旧ユーゴ)を見るまでもなく両地域の関係は昔から強固でした。

ブダペストからクロアチアザグレブ行き急行列車に乗る

 コソボ紛争が始まったのは1998年2月、今からちょうど10年前だった。ボスニア紛争がほぼ終結に向かっていた当時、今度はコソボが新ユーゴスラビアからの独立を主張し始めていた。それを阻止すべくセルビア軍がコソボ自治区の独立勢力を制圧し始めたのがちょうどこの時期である。
 その時、僕は北京からシベリア鉄道・モスクワ・バルト三国経由で東ヨーロッパを旅行していた。途中で一緒になったルーマニア人の子と別れてブタペストに到着。保養施設である公共温泉がハッテン場となっているのに当惑しつつ、長旅の疲れをこの都市で癒していた。

Lonely Planet Croatia

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クロアチア (地球の歩き方GEM STONE)

クロアチア (地球の歩き方GEM STONE)

 次の目的地は、クロアチア最南端にあるドブロヴニク(ドゥブロヴニク Googleの地図だとここあたり)。「紅の豚」の中盤、主人公であるポルコはジーナの待つ赤屋根と白壁で囲まれた小さな島へと飛行艇を走らせていく。そのモデルとなったのがこの地域となる。ここら辺は鉄道が走っていないので鉄道マニア的には趣味の対象とならないし、当時は落ち着いていた(と聞いていた)とはいえ、この街のすぐ裏側はボスニア・ヘルツェゴビナ。ちょっと行くかどうか判断は迷う。ただ、昔、ユーゴの写真集を見たときから気になっていた街だし、永年の宮崎マニアとしてもやっぱ行っておきたい。
 3月7日、ブダペストからクロアチアの首都ザグレブ行きの急行に乗車。わずか5時間ほど、昼過ぎにはこの街に到着した。荷物を駅で預けて半日ほど観光をする。
 その夜は、スプリット行き夜行列車の指定券を買っていた。ここはアドリア海に面した同国南部の主要都市で、港に面した鉄道駅の周辺には17、18世紀頃の古い建物が軒を連ねるように建ち並んでいる。ガイドブックによるとユネスコ世界遺産にも登録されているらしい。

クロアチアザグレブからスプリットへ向かう夜行列車

 夜21時頃にザクレブ駅のホームに到着した7両編成はガラガラだった。クロアチアの戦争が収まって4年も経つが、国内輸送はまだあまり活発じゃないのか。
 そういえば、ザグレブベオグラード(新ユーゴ)を結ぶ国際列車は復活したとの情報を聞いていたけど、駅の掲示では運行停止しているとあった。昨年末から新ユーゴの南の方でなにかドタバタしているとあったのでその影響なんだろうか。指定されたコンパートメントには出発時まで誰も乗り込んでこなかった。

 夜食で買って置いたサンドイッチを頬ばり、ぽつんぽつんと灯火が広がる車窓を見ながら「Lonely Planet Eastern Europe (Lonely Planet Travel Guides)*1を読んでいると、1人の若い男が声をかけてきた。ザグレブまでの一晩、他に誰も客は乗っておらず、話し相手もいない。英語の本を読んでいる人間なら会話できると思ったのだろう。
 年は26歳と言うから私と同じだ。ザグレブで建築技師として働いているのだが、仕事でスプリットへ行くのだとか。もともとここに住んでいたらしく、先祖代々の家もここに残っているとか。明日、ヒマなら案内してやるよ……と言ってくれるが、まあテキトーに受け流しておく。
 「で、なんでクロアチアに来たの?」。当然の質問だ。シベリア鉄道で北京からやってきたこと。もともと中央アジアに行くつもりがビザを取れずにタシュケントからモスクワに強制送還を食らったこと。子供のころからドブロブニクの街に興味があったこと。日本の映画(「紅の豚」)でモデルとなったこと。そんなのを話していたと思う。
 そして、ドブロクからボスニアサラエボ経由で新ユーゴのベオグラードへ行くつもり……と言ったら、相手の口調が変わった。「やめておけ、昨日もセルビアで10人ぐらい死んでいるぞ」。
 どうも先月(1998年2月)から新ユーゴの情勢が激変してしまったらしい。セルビアの南端の一部が独立したがっていて政府軍と揉め事を起こしているらしい。ボスニアもその影響を受けているとのこと。
 彼は大変になっているエリアについて地名を言ってくれたのだが、あまり日本人や旅行者には聞き慣れない地名で覚えられそうもなかった。そこでガイドブックの地図にマークしてもらうように頼んだ。
 さっき10年ぶりにそのページを開いてみた。彼が記してくたボールペンの跡が今でも残っている。YugoslaviaのページのKosovoというエリアとPristinaという街。ユーゴスラビアコソボ、プリスティナ。その後、日本の新聞でもたびたび見かける文字となる。

1991年のクロアチア独立戦争。そしてコソボのこと

 彼曰く、とりあえずクロアチア国内では争乱の気配はないという。ボスニアに近いドブロブニクも問題ないらしい。ただ、先月から始まった戦争のせいで経済活動は減速気味であると。
 ちょっと想定外だった。確かに、エストニア・タリンの日本大使館で読売新聞を読んで以来、ここ1ヶ月ほど新聞を読んだことがない。東欧で英語を喋れる人は決して多くはないので、なかなか情報が外から入ってこない。ユーゴで再び戦争が始まっているのか。
 どうも彼が断片的に話す内容を聞いてみると、クロアチア独立戦争のときは、彼も従軍していたらしい。1991年と言えば自分が大学二年生の時。「私鉄全線完乗を目指す」とか行って日本国内を東奔西走していたことろだ。彼我の違いを改めて再認識させられる。
 聞きにくい質問だがあえて投げかけてみた。「で、どうだった?」。
 彼自身は特に危険な目に遭ったわけではないらしい。実戦からは程遠いところにいたし、そもそもクロアチア領内での戦争は大きなものではなかった。でも、クロアチア人ではなかった昔の友人たちは……、サラエボに移住した知人たちは、その後ボスニアに戦な参加した同世代たちは……
 彼は「誰も戦争が起きることを望んでいなかった。誰も幸せにはならなかった」という趣旨のことを言った。そして吐き捨てるように「でも、それで得したヤツはクロアチアにも何人かいるけどね」と呟いた。
 たぶん、この国では比較的リベラルな思考なんだろうとは思う。でも、戦争が平和と幸せを生まないと感じている人間はここでも多いんだと言うことが実感できた。近くでかつての友人たちが大変な目に遭っているのを見聞きし、でも自分たちは歴史の残酷さの傍観者となっている。それを自覚しているからこその気持ちなんだろう。
 彼は、日本でクロアチアやユーゴ戦がどのように報道されているのか聞きたがった。簡単に説明すると、なんか妙にありがたがってくれた。ヨーロッパでの報道がかなり偏っていることに危惧していたのだろう。
 「それより日本のことを聞きたい」と話を変えてきた。
 それから何時間喋っていたのだろう。第二次世界大戦のことクロサワアキラやムラカミハルキのことサッカーのことアドリア海のことイタリアとの歴史のこと食事のこと……
 乗客が皆無の夜行列車だから他人に迷惑はかからない。でも、さすがに午前4時頃になると頭が回らなくなって英語の単語が出てこなくなる。さすがに疲れてきたので、「とりあえずちょっと寝よう」と彼に伝えてシートで横になった。

真冬のアドリア海を旅した日々

 スプリット駅には午前6時に到着した。朝焼けのホームに降り立ったのは十数人ぐらいだったと思う。建築技師の彼に会うと、「ヒマなら旧市街に行かないか。ちょっと案内するよ」と声をかけてくれた。
 途中、一つの小さな家の前に連れて行かれた。ここは自分たちの祖先の家で、第二次世界大戦の頃まではここに親は住んでいたという。門の脇に紋章があった。彼は自分のペンダントを見せてくれる。同じ紋章が刻み込まれている。あれから50年以上、ここの政治制度も生活スタイルも住人も何もかも次々と変化していった。でも、祖先の家と紋章と歴史だけはなにも変わらなかった。アジアから来た旅行者にそれを示したかったのかもしれない。

 昼頃に仕事場へ行く彼と港で別れ、僕はフヴァル島(Hvar Island)へ向かった。
 オンボロのフェリーで4時間ほどして到着する。夏はそれなりの観光地としてイタリアやヨーロッパからの観光客でそれなりに賑わうらしいが、今は真冬。私以外、誰も観光客はいなかった。民宿を受け付けている家に行ってみたが、この時期、島内の宿もレストランも全て閉鎖しているとのこと。1人困惑していると、「まあいいよ」と宿泊を引き受けてくれた。
 この中世の街並みが残っている、ほんと「紅の豚」に出てくる島そのものの場所に数日滞在し、その後、別なフェリーでドブロブニクに到着した。
 ここも素敵な街だ。市街地全体が18世紀のイタリア風の家並みで覆われている。迷路のような路地が広がっており、島よりはずーっと観光化は進んでいる。冬にもかかわらず滞在している観光客はかなり多い。私は、一泊600円ぐらいの民宿にお邪魔して数日間滞在することにした。

 一方、ここは7年前の内戦の時にセルビア軍から空爆を受けている。その際、死者は出なかったものの、多くの古い家並みが被害を受け、山頂にあるロープウェイ(表記はケーブルカー)は壊されてしまった。市街地の入口にはユネスコ世界遺産のプレートがあったが、その脇に復旧の過程を記した写真が展示されていた。

 宿の高校生の娘さんと仲良くなった。ちょうど学校の地理の授業で日本のことを学習しているらしい。学校のノートを見せてもらうと、なんだか訳の分からない小学生のラクガキのようなのが描かれていた。先生が黒板に描いた日本列島の地図を写したものらしい。確かに本州島とか札幌とか言う文字も記されている。スペルも発音も違うのだが、そこらはご愛敬。たどたどしい英語でやたらと極東のことを聞きたがっていたのを思い出す。

コソボ紛争の新ユーゴスラビア国内を行く国際列車

 いつしか3月15日になっていた。クロアチアに来て8日目。そろそろ次の目的地に行かねばならない。
 この旅は最終的にアテネイスタンブールまで陸路で行き、そこから飛行機で日本に戻ることにしていた。残りは10日ほど。あまり時間はない。ドブロブニクからマケドニアへは直線距離で200kmほどなのでバスか何かで移動できると便利なのだが、地形が険しくそのような移動ルートはとれない。選択肢は次の三つ

 宿の女の子に聞くと、サラエボはたぶん大丈夫、でもドブロクから100kmほどのモスタルは何とも言えない……とのこと。それより新ユーゴって鉄道やバスは走っているの?と聞かれた。
 判断に迷った。
 1人の旅行者として、つい3年ほど前まで泥沼の戦争をやっていたボスニアサラエボモスタルを見ておきたいという気持ちはある。街に残された歴史の刻印を自分の眼で楽しみたいと。
 でも、そうした他人の不幸を好奇心だけで覗き見しに行くのって、どうなんだろう。今回、ボスニアへ行った日本人旅行者に2、3人会ったが、戦争の痕跡を見てきたことを嬉しそうに語る言葉を聞いていてあまり良い印象を持てなかった。
 結局、一番、安全なブタペスト経由のルートをとることにした。モスタル経由より移動距離は三倍ほどかかるが、まあ仕方がない。
 その翌週、ブダペスト駅から、ベオグラードスコピエ経由ギリシアテッサロニキ行きの国際列車に乗り込んだ。時刻表を見ていると、かつてロンドンとイスタンブールを結んだ「オリエント急行」の末裔であることが分かる。ただし運行距離も設備も往年の面影は全くない。
 列車は何事もなく新ユーゴスラビア国内に入って、ベオグラード駅に到着した。経済制裁による混乱で現地通貨は使えなくなっていて、ドイツマルクが市場でも公共施設でも流通していた。街を歩いてみたが、やっぱり国内で内戦状態が起きているからだろう。どこか殺伐とした印象を拭えなかった。
 翌日、同じ列車でギリシアへ向かった。僕の乗った車両には2、3人しか乗っていない。
 途中、ユーゴスラビア南部のどこかの駅で列車は停まった。そのまま数時間、動かなくなった。何が起きたんだろう。真っ暗闇な車窓を見ると、近くの国道でトラックの隊列が進んでいる。なんなんだろう。よく目をこらして確認すると、なんかシートに包まれた巨大な物体を運んでいることが分かる。たぶん戦車なんだろう。後から気付いたのだが、ここら辺の線路、コソボ自治区にほど近い国境線(当時は共和国境)の側を通っていたのである。4カ国を直通する国際列車が動いているので安全面では問題ないと思っていたが、もしかしたらとんでもないタイミングで入国してしまったのかもしれない。
 気がつけば列車は動き出していた。まもなく駅に到着した。乗り込んでくる客も多い、窓の外を見ると、「Skope」(スコピエ)とあつた。マケドニア領内に着いたんだ。心底、ほっとした。この後、ギリシア第二の都市テッサロニキに着いたのは昼の12時過ぎ。定刻より7時間遅れだった。

 その一週間後、アテネシンガポール経由で日本へ帰ってきた。2ヶ月ぶりである。留守中の新聞を開いて外報面を確認してみたが、ユーゴスラビアでの内戦については隅の方に小さく「◎人死亡」とか書いてあるだけ。担当する記者もボスニア紛争でユーゴの争乱には慣れっこになっていてあまり当地の状況に関心がないのかもしれない。
 その後、セルビア政府軍と独立運動グループの内戦は激化の一途を辿り、日本の新聞でも「コソボ自治区」という地域名が毎日のように一面を飾るようになる。ブダペストから新ユーゴ経由でギリシアに向かう鉄道も一部が破壊され、直通列車の運行もストップした。翌1999年、NATO軍はベオグラードへの空爆を開始する。
 ああ、あれから10年も経ったのか。あのとき会ったクロアチアの建築技師や女子高生は今何をしているんだろう。真冬の日本で新聞を読みながら、今朝、そんな思いにふけっていました。そーいや、最近、読み返した米澤穂信の小説「氷菓 (角川文庫)」と「さよなら妖精 (創元推理文庫)」にもユーゴとコソボの話が出ていたな。彼も現地へ行ったんだろうか。ともあれ、またこの5月にクロアチアセルビアボスニアへ行ってみたいなあと思い始めたのですが、それはまた別の話。

*1:世界で最も有名なオーストラリアのガイドブックシリーズの東欧篇。途中で行程を変更したのと、「地球の歩き方」が全く使えないため、モスクワの英字書店で買っておいた