「暴走族」と命名されてから今年は35周年になるらしい

katamachi2008-03-11

 仕事場へ行くと、誰も読まない雑誌がオフィスの片隅に放置されている。業界団体とかの関係で無理矢理買わされている雑誌というのはどこの会社もあるだろう。そうした"善意"や"好意"でまたたくさん紙が無駄遣いされていく。
 でも、僕の場合、元来の文字好きだからか、そうしたどーでもいい情報ってのが好きなんで、一度は目を通そうと努力する。で、「燃えるゴミ」行きに分類されていた束の中から見つけたのが「「月刊交通」臨時増刊号「交通警察のあゆみ」」(東京法令出版 道路交通研究会編集)。2007年というのは警察庁交通局が発足して以来、45周年に当たる年であったらしく、その記念に刊行されたのだとか。定価950円を負担させられている身としては有り難迷惑な気もしないわけでもないが、とにかく目出度いんだろう。でも、中身はない。
 そのまま読み飛ばしてゴミ箱に戻そうとしたのだけど、一つ興味を惹く項目があった。それが「暴走族対策」。今まで全く関心はなかったが、いろいろとためになる、いやどーでもいいような情報がたくさんあった。鉄道マニアが暴走族について調べてもあまり意味はないし、そもそもブログで報告するほどのこともないと思うが、まあそれはそれ。
 そもそも「暴走族」という名前が初めて使われたのは1972年。
 6月17日夜に富山駅前の繁華街でサーキット行為を繰り返していた百数十台の乗用車、それを見物した2500人の群衆が暴徒化し、警官に投石したり、通行車を破壊したり、付近の商店から略奪したりして暴れたのだという。
(バイクの写真を一枚も持っていないので富山地鉄路面電車の写真でも↓)

 それをマスコミが報じたとき「暴走族」という言葉が使われたという。さらに、1973年の「昭和48年 警察白書」が彼らを「暴走族」と呼称し、それで全国に広がったという。今年は、警察が「暴走族」と命名してから35周年の記念すべき年と言うことだ。

(5) 地方都市に多発した暴走族騒ぎ
 昭和47年4月末、富山市中心街に端を発した暴走族騒ぎは、6月から9月にかけて、高岡、小松、金沢、岡山、福山、高知、今治、高松など北陸、中国、四国の地方都市に波及した。
 スピードとスリルを求めてオートバイを乗りまわす若者の集団は、昭和38年ごろから見られ、「カミナリ族」と呼ばれた。最近は、オートバイだけでなく、四輪車も使用するようになり、見物の群衆と結びついて、深夜にわたり異様な興奮状態を巻き起こし、付近の住民に多大の迷惑をかけたのみでなく、投石、放火などの不法事案、取締りの警察官に対する傷害事案なども起こし、「暴走族」とか「狂走族」とも呼ばれるようになってきた。
 このような暴走族騒ぎに対して、警察としては、交通部門のみならず、全警察の総合力を発揮した体制により、不法事案の検挙、暴走族騒ぎの予防鎮圧を図った。
 暴走族騒ぎの取締状況は、表6−40のとおりであり、検挙者は、2,597人にのぼっている。この結果、9月末には、いずれの都市でも騒ぎは静まり、暴走族は見られなくなった。
 富山市内における暴走族のうち、検挙したもの958人の実態は、表6−41
「昭和48年 警察白書」

 そんな暴走族たちの35年のあゆみをここでまとめてみよう。

  • 1950年代後半 マフラーを外したバイクで暴走する「カミナリ族」が都市部に出現。
  • 1960年代前半 全国に波及。「オトキチ族」・「マッハ族」といった類似の名前も
  • 1965年暮れ 東京原宿界隈で急発進や高速コーナリングをする「サーキット族」が出現
  • 1966年 都内各所の盛り場に出現し、多くの見物人を集める。名古屋市テレビ塔・神戸市六甲山では車両妨害なども
  • 1972年 東日本でツーリングタイプの暴走行為が多発。組織化が進む
  • 1972年6月 富山駅前で「サーキット族」110台と2500人の見物客が暴徒化。「暴走族」と呼ばれる
  • 1973年 「昭和48年 警察白書」が「暴走族」と命名*1
  • 1974年 32都道府県81グループ2.6万人に膨れあがる。山間部や港湾道路など交通量の少ない所での活動が中心。「ローリング族」・「ドリフト族」・「ゼロヨン族」などと呼ばれる
  • 1974年1月 東名高速海老名サービスエリアで暴走族同士の大規模乱闘起きる。翌年、鎌倉でも発生→その後も暴走行為は多発
  • 1978年5月 道交法改正。「共同危険行為等の禁止」が盛り込まれる
  • 1982年 富士スピードウェイの観戦目的で暴走族が東名高速で暴走を繰り返す(1986年にようやく沈静化)
  • 1985年 大規模集団暴走事案が減少。ただ、都市部の住宅街で異常な排気騒音を立てる「爆音暴走族」が出現
  • 1988年 正月の富士急ハイランド方面への「走り初め」・「正月暴走」がカー雑誌で取り上げられる
  • 1989年 暴走族が一般通行者を襲って死亡させる事件が相次ぐ。対立抗争、集団リンチによる殺人や傷害致死も相次ぐ
  • 1996年 この頃から「正月暴走」での料金所やサービスエリアでの破壊行為や凶悪事件が相次ぐ
  • 1998年 暴走族で暴力団が占める割合がピークに達する。と共に、暴走族や元暴走族による「旧車會」と称するグループが昼間に旧型二輪車で集団走行するのが見られる
  • 1999年 暴走族構成員で少年の占める割合はこれまで7〜8割だったのが、この年、初めて7割を切る。警察の取り締まりを避けるべくグループ名を「旧車會」とする暴走族も相次ぐ
  • 2002年 暴走族グループ数が減少に転じる
  • 2006年現在 暴走族構成員で少年の占める割合が48%と5割を切る、16〜19歳人口1万人に占める暴走族構成員比率 1983年40.1人→2006年12.4人、グループの小規模化。50人以上のグループは2006年に消滅


 というのが、その中身の要約。暴走族なんて、これまで"社会の害"や"ヤングのハシカ"みたいな扱いしかされてこず、彼らがいかにあくどいことをしているのか、その非行をいかにして解消するのかという側面しか報道・研究されてこなかった。彼らの「あゆみ」がまともに報告されたことはないと思う。生まれてこの方、暴走族とは縁遠い生活をしてきたので、彼らがどんな動態をしてきたのかほとんど関心がなかった。
 そういった意味では、この「『月刊交通』臨時増刊号『交通警察のあゆみ』」という冊子。ゴミ箱へ持っていくつもりだったのですが、都市文化・キッチュなもの好きの僕的には非常に興味深い雑誌だった。いや、もうこのブログでメモをしたから近日中に捨てると思うけど。
 でも、ここ10年ほどで、構成員の高齢化・減少は続いている。2002年と2006年を比べると、検挙者は半減しているという。まだ続けている人も濃〜い人たちばかり。彼らと正反対の連中から「珍走団」と揶揄されるようになってはもう昔の迫力はないですね。
 「若者は集団行動が嫌い…暴走族の数が激減」を見ると、

警察庁は27日、2004年に全国の警察本部が確認した暴走族(集団暴走型)の暴走参加延べ人数は約9万3400人で、2003年よりも大幅に減少した。暴走族に関する110番の件数も減少しており、同庁では「暴走族は今の若者には合わなくなった」と分析している。これは警察庁が明らかにしたもの。全国の警察本部が2004年に確認した集団暴走型の暴走族の数は、延べ人数で9万3438人となり、2003年の13万6155人と比較した場合、4万2717人減(31%減)となった。また、暴走族に絡む110番通報の件数も8万7448件で、こちらは2003年と比較した場合には17.6%減。10万件を割り込むのは1988年以来、16年ぶりとなる。
暴走が少なくなっているのは、「暴走族自体が減少している」からと考えられている。昨年1年間に警察が活動を確認した暴走族組織は1063グループ。地方都市を中心に、依然として強い勢力を誇っているところもある。
しかし、構成員は前年比11.2%減の1万8811人で、新規に加入する人数よりも脱退する人数が大幅に上回ったため、グループとしての活動を維持できなくなった組織も多い。1グループあたりの構成員の平均値も18人となり、10年前の半分近くに落ち込んでいる。

とかなんとか。なんだか、利用者が減って閑散としている商店街のニュースを聞いているような感じがして、一抹の寂しさを感じざるを得ない。そーいや、実家の近くの国道は、大阪でも有数のサーキットの名所だったのだけど、今では静かになってしまった。20年前の元気だった頃を見聞きしているので……隔世の感がある。
 そこでふと思い出したのが、中学校の時の同級生で暴走族準構成員(でも菊池桃子マニア)だったC。3年間クラスが一緒だったからか、マジメで鉄道好きの僕とやたらと仲が良かったんですね。中学校の卒業文集で、みんな学校の想い出について書いてるのに、僕が鉄道、彼がバイクの話を書いてしまい、担任教師の勧告を無視してそれを撤回しなかったので一緒に教頭に怒られたのを思い出します。最後に会ったのは、市立図書館の近く。原チャリに跨りながら警官の職務質問を受けていたのだけど、今は何をしているんだろうとふと気になったのですが、それはまた別の話。

*1:「狂走族」との言葉もあったようだが今では使えないだろうな