第二京阪道路と大阪府と芋掘りの想い出。

katamachi2008-10-16

 今から16年前の、ある秋の日。
 大阪市内某所で十数団体が連合しての趣味のイベントがあって、僕はその責任者をしていた。
 集合時間は朝9時。ところが、いつまで経っても京都の1団体だけがやってこない。今みたいに携帯電話なんかもないから連絡の取りようもない。あれ、責任者の人は生真面目そうな人だったのに......と思いつつ、他の人らを待たせるわけにもいかない。とりあえず空きスペースは放って置いて開会宣言を行った。
 11時になっても、正午になっても音沙汰がない。道路渋滞に巻き込まれているとは予想できるのだけど遅れるにも限度がある。京都から大阪まで50kmほど。ナンボ渋滞していても4時間あれば着くだろう。もしかして開催日を間違えているのか??自宅に電話しても誰も出てこないのだけど。
 いつしか怒りから諦観の境地に達し始めた午後3時頃。ようやく彼らが現れた。6時間の遅刻だ。「スミマセン」と申し訳なさそうにする。
 僕は人間ができていないので「大変でしたね。まあなんとか残りでやっていますよ」と彼らの顔を見ずに皮肉交じりに問いかけてみた。
 で、詳細を聞いて驚いた。彼らは朝6時に京都市内北部を出発したのだという。3時間もあれば大阪に……と思っていたのが、9時間かかったのだという。ウソちゃうのと思ったのだけど、憔悴しきった彼らを見ていると、たぶん事実だったのだろう。
 大阪と京都。JRの新快速だと30分ほどで結ばれている両都市を結ぶ道路は、

と、この3ルートしかない。京阪間を結ぶ鉄道が東海道新幹線東海道本線阪急京都線京阪本線と4路線あるのと比べると、その脆弱さは際だっている。
 大阪府京都府との境になる大山崎から八幡にかけてのエリアは京阪間の要所で、羽柴秀吉明智光秀が雌雄を決した天王山の戦いの舞台となったのもここ。山崎、洞ヶ峠、石清水八幡宮なんてのも有名だろう。南北を山に囲まれたこの狭隘なエリアに、淀川と道路3本、鉄道4本が集中する。抜け道もないので、道路容量を大幅に超える自動車が集まる行楽シーズン、ここでの渋滞は頻発していた。
 「淀川左岸の通行を補強する第二京阪道路」での浪速国道事務所所長のコメントによると、

  • 大阪〜京都 国道2本と高速1本で車線数の合計14車線 走行台数は24万台
  • 大阪〜神戸 国道2本と高速2本で車線数の合計20車線 交通量は同等

という。事故も頻発していた天王山トンネル名神のバイパスが開通して若干はマシになったけど、それでも渋滞はひどい。時間が読めないんで、その中間点に住んでいる僕らは、京都や大阪に行くときもほとんどクルマを利用しようと思わなかった。

第二京阪道路の計画が進んだのはバブル期の80年代後半

 その京阪間のバイパス路線として80年代末から大阪府京都府が検討を始めたのが「第二京阪道路http://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/03/index.htmlである。計画自体は60年代からある。八幡市付近で予定されていたニュータウンの足として想定され、1969年に都市計画決定されている*1

というのがそのルート。JR片町線京阪本線とに挟まれた北河内地区を通過していく。1983年に事業化が始まっている。

 僕の実家はそのルートに程近いところにあるので、高校生だった20年前から整備の状況の概略は知っていた。バブル経済金丸信先生のお陰で全国に高速道路網が大判振る舞いされた当時。なんかよく分からないうちに第二京阪道路も建設されることになっていた。この異常な景気はオレがオトナになった頃まで続いてないんだろうなと考えるぐらいひん曲がってはいたが、超へき地を通る三遠○信自動車道なんかよりは有益なんだろうなってことぐらいは想像できた。
 でも、その時から、ちょっと計画に不安があった。
 確かに、地元なんで、京都と大阪を結ぶエリアの深刻な渋滞は身をもって体験している。できればみんな便利になる。でも……用地買収できるのか??と。
 案の定、昭和の終わりあたりから、反対運動が沿線各地で始まってくる。大阪府下でも比較的緑豊かな自然が残る交野市、そして大阪側の起点で新道のメリットを享受できなさそうな門真市がその中心となる。予定では2000年頃完成とかいう話だったが、どうなんだろう。無理じゃないの。
 1992年に都市計画変更がなされ、高速道6車線一般道8車線だったのが、高速道6車線一般道4車線に変更されて、代わりに道路の両側に街路樹を植えることになった。
 90年代半ばから徐々に用地買収が始まった。京都府内は順調に進んだようだが、やはり交野市と門真市では頑強な抵抗にあった。建設省は「緑立つ道」として、その重要性と「環境に優しい」側面を強調するPRを展開する。毎月のように新聞の折り込みに上質な紙とインクを使ったチラシが入っていた。北新地駅に隣接した梅田の地下街にも建設省の宣伝ブースが構えられた。カネはあるところにあるんだなあと感心させられたものだが、意外にもこの第二京阪道、地元の人間でも、どんなルートを通るのか知られていなかった。人知れず計画が進捗していったという印象がある。
 それから20年経った2008年。いまだに全通はしていない。
 いや、2003年に京都側の久御山IC〜枚方東IC間が部分開通している。三車線の立派な道路が京都府南部の田園地帯に敷設された。
 ただ、完成区間はわずか9km(後に巨椋池まで延長)。そして、現在、この区間を僕自身もたびたび利用しているのだが、枚方東ICというのが幹線道路から外れたところにあるので、完成から5年経った今でもほとんどクルマの通行がない。深夜だけでなく、昼間でも、みんな140km/hとかそれ以上のスピードで飛ばしまくっている。線形が良すぎるし、何より走行台数が極めて少ないので、みんな好き放題にしているようだ*2

門真市巣本地区では第二京阪道路はあまり歓迎されないんだろうな

 で、鉄道とも関係ないのに、こんなことを書こうと思ったのは、以下のニュースを今晩見たから。

 第二京阪道路京都市伏見区大阪府門真市)の建設予定地に位置する北巣本保育園(門真市)の野菜畑を撤去する大阪府の行政代執行が16日早朝から始まった。
野菜刈り取られ…涙ぐむ園児 保育園の畑を大阪府が行政代執行産経新聞、2008.10.16

 この幼稚園は、以前から大阪ローカルのニュースや新聞で何度か取り上げられたのを見たことがある。巣本というのは、起点となる門真IC(地下鉄門真南駅付近)から程近いところにある。

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 この道路と実家は2kmほど離れている。うちは何も迷惑を被っていない。いや、僕個人としては、完成予定とされている2011年には多大な便益を受けることになる。枚方東ICから実家までは10kmほどなのに、昼間だとクルマで1時間ほどかかる。途中、あちこちで渋滞に引っかかるのだ。道路が完成すれば10分か15分程度で到着する。非常に有り難い話だ。
 でも、保育園のある門真市巣本地区のことを考えると、気の毒である。
 ここは国道163号と府道が交わる交差点があり、交通量が多いにもかかわらず車線が片道1車線しかないので渋滞が終日起きている。地元では、「巣本交差点」というと、あまり良くない意味で有名な場所である。鉄道駅や松下電器の本社から外れてはいるし、都市計画決定された1969年段階ではまだまだレンコンや大根の畑だらけだったのだろう。が、今ではそれなりに住宅が密集している。そんな市街地のど真ん中が、90年代後半から次々と更地になっていった。昭和時代の面影を知っているから、その展開の早さには驚かされたものだ。
 ただ、新しい「緑立つ道」とかいう妙な名前の道路によって市街地が遮断されてしまう。自動車専用道路とあわせて、地平を走る一般道路も敷設されることになっている。国道163号とは巣本交差点のすぐ側でクロスするのだろうが、現在の交差点付近で車線増とかの工事がされている気配は何もない。このまま数年後、新道が開通すると、巣本界隈の状態はさらに深刻になるのだろうか。
 いや、それよりも気になるのは、起点である門真ICから西側の部分である。
 第二京阪道路は、門真ジャンクション近畿道と連絡する。吹田や松原、関空。和歌山方面への連絡はスムーズになるのだろう。
 でも、門真から先、肝心の大阪市内へ連絡する道路は、今回、何も新設されていない。本来は、阪神高速道路淀川左岸線が、第二京阪道路と同時に、門真JCT大阪市北区豊崎(梅田のすぐ近く)〜此花区北港間に敷設され、阪神高速神戸線湾岸線と接続する話になっていたのだが、これもいろいろ地元との協議が長引いて、門真JCT豊崎間は事業化の目処が立っていないhttp://www.kkr.mlit.go.jp/kansen/yuushikishaiinkai/。つまり、京都と大阪を結ぶ新道として企画されながら、大阪市内へは自動車専用道で直結していないのだ。
 なんとなく東北新幹線が1982年に開業したとき大宮が始発駅になったのとよく似た感じになりそう。あの時は、国鉄も上野と大宮の間で「新幹線リレー号」を運転して3年後の上野開業まで場つなぎをして、なんとかつじつまを合わせた。
 でも、今回、大阪市大阪府も国道交通省も、門真と大阪市内を結ぶ道路については何も手配をしていない。ただ、門真で近畿道と大阪中央環状線に接続させたただけ。2011年に開通した後、門真付近でどんな渋滞が起こるのだろうか。そこらのことは誰も何も考えていないのだろうか。
 用地買収とは無縁の地元民としては、この道路ができるのは有り難い。同じように話題となっている圏央道なんかよりは地元に与える便益も多そう。ただ、1969年の都市計画決定から地元との協議をほとんどしないまま、1992年に都市計画決定の変更を行って着工に漕ぎ着けた経緯はかなり不透明。この時期、大阪府庁って、関西空港泉佐野コスモポリス、都市計画に代表されるような大規模投資を次々と打ち出して、需要を過大に見積もりすぎて、それがことごとく失敗している。それはバブル景気とその崩壊で計算が狂った……というレベルの問題ではない。明らかに都市経営の失敗がそこで何度も繰り返されている。
 そういえば、泉北ニュータウン関西空港との間に、「都市計画道路泉州山手線」という壮大な未成道路があったなあ。熊取町にいくと広大な道路予定地が空き地となっているけど、あれ、どうなるんだろう。

道路か保育園児か。イモかカネかという単純な比較ってどうなんだろう

 で、上の記事の本題だったイモの話。

 保育園側は2週間後に近くの保育園と共同でこの野菜畑を使ったイモ掘り行事を控えており、職員ら約50人が「子供たちの野菜を奪わないで」と反対の声をあげたが、府は代執行を強行。園児らが育てた野菜を刈り取り、敷地の立ち入り禁止措置を取った。 
 橋下徹知事は「府はこれまで誠実に交渉してきた。供用開始が遅れると通行料で6億、7億円の損害が出る。申し訳ないが理解していただきたい」とコメント。「イモ掘り行事まで待ってほしい」という要望には「なぜ2週間早くイモ掘りをしなかったのか。もっと早く園児を喜ばせる方法があったはずだ」と保育園側の対応を批判した。

という状況だったらしい。
 大阪府からすると、6億円の通行料とイモを比べれば、そりゃあ、カネの方が大事だ。好むと好まざると、いつかは代執行しなければいけなかった。なら、高裁の決定と、イモの収穫祭まで待っていれば良かったのに……と思う。大衆に迎合したパフォーマンスと保守系議員への気配りで人気を集めてきた橋下徹大阪府知事にしては配慮に欠けていたなあとは思う。
 ちょうど、昨日から上杉隆の「官邸崩壊 安倍政権迷走の一年」を再読していた。今は何をしているのか消息がよく分からない安倍晋三元首相と側近たちによる「お友達内閣」が崩壊する過程を描いた政治ルポだ。その中で、安倍が目指そうとして最後まで近づけなかった小泉純一郎の政治手法として、

 小泉は眼前の事象だけに集中し、残りは切り捨てる。民主主義の本質であるじれったさは舞台裏に追いやられ、何事にも単純さが求められた。内容は二の次だ。詳細は省けばいい。なぜなら、結果が出る頃には、誰にも覚えていないからだ。

と評している。確かに小泉は今では完全に引退モード。うまいやり方だったなあ。
 「小泉」を「橋下」と置き換えれば、大阪府でのドタバタを想起させてくれる。
 橋下徹知事と僕とはいろんな意味で縁遠いところにいる人だとは思ってきた。政治手法から何から肌に合わない点が多い。でも、東国原宮崎県知事よりは、橋下氏の方が内実に踏み込んだことを言ってきたし、やってきたんだろうと思う。確実にハードなことに取り組んでいる。
 ただ、府立国際児童文学館を私設秘書に“盗撮”させた問題のあたりから、その早急さが裏目に出ている。2週間を待てなかったのは、なんとなく焦りと裏腹の関係に見える。
 小泉は郵政解散から1年で表舞台から姿を消した。でも、橋下徹氏はまだ就任して半年少ししか任期を終えていない。あと3年半は府知事のイスには座っているのだろう。大阪府大阪市の地方議員って、保守も革新も、他の自治体の議員たちとは別種の、ちょっと独特な胡散臭さを持っている。今のままじゃあ、なんか先行き不安だなあと思う。
 とか何とか、元大阪府民が外野で言っても仕方がないか。
 朝日の記事「園児のイモ「なぜ抜く」 第2京阪用地、大阪府が代執行」によると、「浪速国道事務所によると、事業用地は保育所の畑を除き、まだ7件、約3千平方メートルが未買収」とある。まだこれは続くのか。


 で、タイトルにもした「芋掘りの想い出」。小学校の時、学級菜園というのがあって、学校から徒歩5分ほどのところへ毎年秋になると芋掘りに行っていた。昔から土まみれになるのがイヤだったんで、僕にとっては苦痛な作業だった。でも、4年生になった春、一度、いつもの畑に植えにいったにもかかわらず、その数週間後、今度は別な場所に茎を植えるように指示された。理由は何も説明されなかった。なんだ面倒だなあ。でもなんでだろう……と思っていたら、学級菜園があったところが整地され、その翌年、家が建てられた。いろいろオトナの事情があったのだろう。だからなんなんだと問われると困るのだけど、門真の保育園の写真を見て、ふとそんなことを思いだしたわけですが、それはまた別の話。

追記

 「保育園のイモ畑を潰した大阪府は本当に鬼畜なのか? - 狐の王国」が興味深かった。産経新聞が勧善懲悪のストーリーで記事を組み立てたことの安直さに疑問を投げかけ、記事で書かれていないポイントをいくつか列挙。「天下のマスメディアがこの程度の知識を調べられないはずはないだろう」と批判している。視点としては面白いんだけど、記者に1日でそれだけ調べる時間があったのか、誌面にそれだけスペースがあるのか、勧善懲悪なストーリーで何が悪いのか。産経の写真が撮られたのは午前8時、記事がアップされたのは11時。他紙の夕刊の〆切もそこらがギリギリ。検索エンジンだけに依存することはできない記者が書けることは事実関係と現場にいた人への取材、府庁担当記者の橋下のコメント取り……が限界でしょう。いろんな都合があったと想像できる。続報に期待、でいいんだと思う。
 僕なんかは、あの産経がよくこれを記事にしたなあ……と思う。ウヨウヨした人が多い東京と違って、大阪はまだ広く目配りできる人がまだ多いんだろうな。
 「保育園側に政治的意図でもあったかのようにも見える」ともあるけど、それは計算に入れていたと思う。反対派としてアピールするには絶好のタイミングだ。
 保育園側がイモの収穫を2週間後に予定していたのは、大阪高裁の決定が10月30日に出る前後にあわせていたのだろう。僕が園長ならそうやって仕掛ける。もはやカネで解決する話ではないし、引き下がるつもりもないだろう。エゴとか何とか言われても感情的に許せるものではない。そうなっては和解は無理だし、勝てる戦じゃないとは分かっていても突撃するしかない。
 「門真のイモ畑VS道路の建設」という今回の事件は、ある意味、都市近郊の農地における象徴的な対立構造だった。大都市の都市化が始まった大正期以降、周辺の農村部は次々とスプロール状に開発され、様々な土地利用が行われていった。で、バブル以降の地価下落で日本の"土地神話"と"成長期待"が崩れ去ったことで、「安価な農地→開発→高値で売却」というモデルも成り立たなくなり、地域開発の説得力が失われてしまった。その過渡期に今はあるんだなあと改めて実感した。
 まあ、土地を取られるのって、経済合理性や理屈だけでなく、過去からの様々な感情的なモノも絡んでくる。そこらも想像してあげて欲しいと思う。
 あと興味深かった記事。
保育園代執行で大阪府が本当に鬼畜な理由: BattleRock Blog
いい加減にしろよ、お前ら - Dr-Seton’s diary
はてなブックマーク - 野菜刈り取られ…涙ぐむ園児 保育園の畑を大阪府が行政代執行 (1/2ページ) - MSN産経ニュース
 「橋下」+「大阪」+「公共事業」+「園児」+「体制への反対」+「イモ」+「産経」という組み合わせが絶妙だったからか、やたらと関心を呼んでいるなあ。

*1:1972年の都市交通審議会では第二京阪道路と並行しての鉄道計画線として、本町〜野江〜寝屋川市太秦〜交野間の路線が答申されている。現在の長堀鶴見緑地線の原型

*2:映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 』の「レインボーブリッジ」としてロケ地に使われた。それぐらい開放的な長い直線道路が続く