オタク第2世代が生き延びてきた80年代後半の「アニメ冬の時代」

 俺は松谷さんのような第二世代の論客が台頭してきて、社会学的なアプローチからオタク問題について書き始めるのを待っていました。先にも言ったように第一世代は当事者性が強く、それがゆえのメリット・デメリットが諸刃の剣になってしまうところがあります。つまり自分の体験を特権化するあまり、客観性が保ちにくいということですね。
第二世代から見た「オタク問題史」: たけくまメモ

 オタク第1世代である竹熊健太郎による言葉。
 これまでオタク論と言えば、竹熊や大塚英志岡田斗司夫宮台真司などオタク第1世代(1960年前後生まれ)によって紡がれることが多かった。ただ、彼らは70年代後半、"オタク状況"が成立した現場に立ち会ってきたこともあって、それゆえに発言の中に好むと好まざると自分の見てきた視点からのバイアスがかかってしまう。で、その下の世代によって歴史をまとめていくことが大事なんだ、という文章だと理解した。
 僕は1972年生まれなんでオタク第2世代(1970年前後生まれ)に分類される。
 この世代、ガンダムあたりからエヴァに至るまでオタク文化を支えてきた核となる層なのだけど、どうもあまり語られることが少なかった。
 ヤマト&ガンダムのムーブメントにはきっちり引っかかっているし、名作劇場藤子アニメタツノコ系・魔法少女物、戦隊物など第二次アニメブームの諸作品を基礎教養として幼少期から体験してきた世代でもある。ファミコンの出現にも立ち会っているし、コミケの巨大化、二次創作の一般化、やおい系の拡充.....の担い手でもあった。
 また、テレビアニメというものが家庭で当たり前になって、小学生がアニメを見るのに誰も咎めない時代に育っている。中学生になると大方の子供はアニメから卒業しているんだけど、80年代には中高生向けのアニメ雑誌やマンガ青年誌というものも既に存在していた。コドモからオタクへとステップアップしていくことも容易になっていた。それゆえオタク第1世代のような自負は不要であった。
 もちろん、そこには、同級生たちや親たちの冷たい視線があったりする。当時、アニメというのはやっぱり小学生で卒業すべき"こども向け作品"であるという考えからは抜けきれなかった(たぶん今も)。周囲から「まだアニメなんか見ているのかよ」と、からかいや小バカにしたような言葉が発せされるたびに、過剰に反応してきた連中も少なくない。「アニメ好きだから(今だとオタクだから)差別されるんだ」と思いこんでしまう。そんな葛藤があったりもしたんだろうけど、それはまた別の機会に。

年代 分類 世代
1945〜1954 プレおたく世代 マンガ世代 団塊の世代
1955〜1964 おたく第一世代 テレビアニメ世代 新人類世代
1965〜1974 おたく第二世代 ゲーム世代
1975〜1984 おたく第三世代 ネット世代

※竹熊氏作成の表を引用。第2世代がゲーム世代と言われるのは違和感あったりするがまあそれはそれ。元の表にあわせて「おたく」としたが、本文では「オタク」と表記する

オタク文化断絶の危機にあった80年代末の「アニメ冬の時代」

 さて、オタク第2世代が、ただのコドモからオタクへとシフトしていったのは、ガンダムブームが席巻した80年代である。
 ただ、実際、上で書いたように、アニメ好きのコアな連中がみんな"オタク"(当時はそんな言葉は知られていないけど)になったのかというと、そういう訳でもない。実は、80年代半ばぐらいから、オタク趣味の中核とも言えるテレビアニメが「冬の時代」に突入し、アニメブームが急速に萎んでいく。それ以前からオタク的活動をしていた連中は、そんな端境期に直面している。
 境目は1984年か。この年、「風の谷のナウシカ」・「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」・「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」と劇場三作が大絶賛を得ているのだが、その一方で、春期のテレビアニメの放映本数は45本から35本に減っている。
 続く1985年、アニメのメディアミックスに積極的だった角川書店が「月刊ニュータイプ」を創刊。同じ月、80年代初頭のアニメブームの牽引役だった「機動戦士ガンダム」の次作「機動戦士Ζガンダム」の放映が開始。アニメ誌各誌とも大々的に特集し、あのブームよ再び……と期待していた。のだが、当時の中高生から絶大な人気を集められたわけではない。もちろん雑誌を買うようなコアな層はメカやキャラを追いかけてはいるのだが、先のブームを支えた一般層からの幅広い支持を得ることはできなかった。
 1986年以降、またもや期待を集めていた「機動戦士ΖΖガンダム」は、こども向けに路線変更したのが受け入れられず、迷走したまま終了。翌1987年の「機甲戦記ドラグナー」でこの路線も終焉を迎える。
 大きなおにいさんが愛した「うる星やつら」、びえろ魔法少女物の「パステルユーミ」も1986年に相次いで終了している。
 アニメ雑誌の休廃刊も続いた。1986年に「マイアニメ」、1987年に「アニメック」と「ジ・アニメ」。古参の「アニメージュ」も迷走し始めて、いつしかジブリアニメの宣伝媒体と化していた。
 その宮崎駿も「天空の城ラピュタ」(1986)の成績が伸び悩む。映画会社からは「もうダメなんじゃないの」と言われるようになり、次の「となりのトトロ」(1988)は「火垂るの墓」との併映。春休みが終わった後という中途半端な時期に公開され、その時点ではまだ大衆的な認知を受けたわけではない。押井守も「天使のたまご」(1986)の後、その作風が受け入れられずに、3年ほど業界から干される形になる。大友克洋の「アキラ」(1988)はオタク層とは別な人たちをターゲットにしていた。富野が満を持して出してきた「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988)も、旧作テレビを再編集した三部作ほどの注目を集めるに至らなかった。
 こうして、この時期、アニメブームの牽引役だったオタク第1世代の残党、そしてまだ中学〜高校生だったオタク第2世代がこの世界から離れていく。そしてブームは下降線を辿っていく。そんな80年代後半は、「アニメ冬の時代」とも言える状況になっていった。実際、当時の「アニメージュ」誌を繰ってみると、人気作品がない中で何をプッシュしていけばいいのか分からなくなって迷走している状況がよく理解できる。

1990年頃から再び潮目が変わってくる

 もちろん、そんな時期でも、それなりに人気を集めた作品はある。たとえば、

などなど。
 ただ、これらの作品。当時、後にオタク第2世代と分類される中学〜大学生たちから絶大な支持を受けたわけではない。オタクたちの趣向の細分化が進み、爆発的なヒット作が生まれなくなった。小さいときに体験してきたヤマト・ガンダムのようなブームは期待できなくなった。
 あと、このリストからは意図的に無視したのだが、「アニメ冬の時代」、実際に普通の中高生に一番受け入れられていたのはジャンプ系のアニメであろう。「北斗の拳」や「シティーハンター」、「オレンジロード」などなど。後はサンデーの「タッチ」とか。ただ、一般層にも受け入れられた作品だと、マニアは盛り上がりにくい。アニメ誌としても、他社のマンガ原作のアニメをなかなかプッシュしづらい。特にジャンプ系のキャラを大々的に使うことはいろいろ難しかったと聞いている。
 やがて、テレビアニメのメインターゲットであるコドモたちの数が減少→テレビゲームの普及→視聴率の低下という状況が深刻になってくる。
 1989年になると、フジテレビや日本テレビが視聴率の取れなくなったゴールデンタイムのアニメ番組の本数を削りだし、夕方時間帯に新しいアニメ放送枠を設けた。予算も大幅に削ったのか、作画も何もかもがイマイチ。この年、一時的に放映本数は増えるが、80年代初頭に目が肥えてしまったオタクたちの目に止まる作品は少なかった。
 そんな中、1990年、NHKで「ふしぎの海のナディア」の放映が始まる。あのガイナックスNHKで冒険活劇物を始める……という報を聞いて、オタク第2世代たちはどよめきだした。実際には、例の「南の島編」あたりで作画は崩壊し、物語も迷走し始めていたのだし、全体的に見ると"名作"とは言い難かった。でも、庵野秀明らスタッフは、最終回までどこか突き抜けてくれるような姿勢を見せ続けてくれた。長らく冬の時代を過ごしてきたオタクとしても、久しぶりに、みんなで楽しめる作品を見させてもらったという気分になれた。
 そして、1992年。「美少女戦士セーラームーン」の放映開始。この年の夏、コミケの会場ではこの作品の話題で持ちきりだった。「大きなおにいさん」たちは少女向けアニメの中に久しぶりの鉱脈を見つけたようで大絶賛していた。この時期からテレビ東京系のアニメを中心に、意欲的な作品が多数、出現する。
 そこらの勢いが、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」へと繋がっていく。「ガンダム」あたりで去っていた連中が、"オタク"としての自意識を持ちつつ、再びマーケットに帰ってきた。

自分語りを基本にしたオタク論に感じる限界

 さて、こうして1985〜1990年頃、いわゆる「アニメ冬の時代」のアニメ事情を語ってみた。僕自身、宮崎駿押井守名作劇場藤子アニメ……とアニメ界の主流から外れた作品を好んでいたので、オタク第2世代のメインストリームにいたわけではない。ただ、アニメ誌を見て、隣で観察していた限り、以上のような認識を持つに至った。
 この間、

  • OVAという新しいジャンルが出現するものの、途中で尻すぼみに
  • 初めからオタク向けを意図した作品群が登場する
  • マニアの趣向からズレてきた宮崎駿が一般層にも認知されジブリブランドが確立
  • 大塚英志の「物語消費論」とメディアミックス戦略の深化
  • テレビアニメが視聴率を取れなくなった
  • やおい系を中心とする二次創作同人誌の市場化
  • ファミコンの普及で、オタクにとってアニメが絶対的な物でなくなった
  • 宮崎勤事件

と、「冬の時代」には、オタク文化の転換点となる様々な現象が起きているのだが、どうもそこらはスルーされてしまいがちだ。オタク論を積極的に語るオタク第1世代、第2世代で、この時期、現役で活動をしていた人は決して多くないからだろう。
 冒頭の記事で、竹熊は、

 第一世代は体験を特権的に持っているがゆえに、つい「自分たちこそ本当のオタクである」と考えがちです。だからこそ、新しい世代が台頭してきて自分たちの体験や感覚が「古い」ことを自覚せざるをえなくなったとき、「オタクはすでに死んでいる」などと口走ってしまうのです。
 別にあれはオタクが死んだのではなく、第一世代が歳をとって時代の変化について行けなくなっただけの話ではないでしょうか。

としている。これは先人として尊敬すべきスタンスだと思う。
 唐沢俊一や岡田、大塚、竹熊たち第1世代の自己体験をベースとしたオタク論は非常に魅力的なのは確かである。「なんでオレはここ(オタク界)にいるんだろう」と迷える子羊たちに一つの指針、そして友人同士で語り合えるネタを提供してくれた。
 だが、彼らの語る歴史観には、個人的な体験から全体像を語ろうとするがゆえに、自分たちの経験していない要素(たとえば「アニメ冬の時代」)については黙殺されている。竹熊は「第一世代が歳をとって時代の変化について行けなくなっただけの話」とするが、ついていけなくなったのは20年以上も前の話じゃないか。別にオタク趣味の最前線で活躍していなくても、"オタク"について語ることは可能だ。ただ、自分語りを基本にしている限り、「あんたら、本当は分かっていない」と現役から批判されるのは当然とも言える。
 オタク第1世代とオタク第3世代とのギャップを埋めるためにも、竹熊の指摘するように、複数の資料や証言元にあたりながら「オタク史」(その核である「アニメ史」)を構築していくという地道な作業が必要なんだろう。
 でも、特定の史観から脱しながら、全体像を語れる人ってなかなかいないんだよね。ことアニメ史に関しては、「冬の時代」に、「アニメージュ」、「ニュータイプ」で活躍してきた小黒祐一郎なんかが適任だと思うんだけどどうなんだろう。彼が「アニメスタイル」の「アニメ様の七転八倒」「第66回 TVマンガが「アニメ」になった時」と続く連載で語っていたアニメ史、そして宮崎駿論って、いろんな意味で興味深かったんだけどなあ。カネにはならないと思うけど、一度、チャレンジしてくれないかな。
 と、海外に渡航した2000年以降、すっかりオタク産業から縁遠くなって、「ハチクロ」と「のだめ」ぐらいしか見ていないと言ったら、第3世代の女の子から「もうオタクじゃないですよ」と烙印を押された自分が語る言葉ではないのかもしれないけど、それはまた別の話。<参考>
id:kanose氏「ヤマトやガンダムによってアニメは大人のものになったのではなくて、小学生向けが限度だったのを中高生までをターゲットにできるようになった - ARTIFACT@ハテナ系
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