インド発チベット宛の黄色い手紙を中国まで届けた話。

katamachi2009-03-01

 今から9年前、2000年の3月。僕はインドの首都、デリーで長滞在していた。
 目的は、中央アジア(旧ソ連)ウズベキスタンのビザを取得すること。その2年前、アエロフロートの飛行機でモスクワからタシュケント空港まで到着したにもかかわらず入国できず、武装警官に取り囲まれながら同じ飛行機で強制送還と相成った。そのリベンジを果たすべく、毎日、在デリーのウズベク大使館に通い続けていた。でも、2週間待っていても本国よりOKサインが来ず、そろそろインド飯にも飽きてきたんで、別な国の大使館でチャレンジしようと思い始めていた。
 とりあえず、先々のことを考えて中国のビザを取得。「でも、ウズベキスタンのビザが取れないとオレの旅行が成りたたんのよ」……と、ボヤいていると、安宿で隣のベッドで寝起きしていたオランダ人が声をかけてきた。
「おまえ、中国に行くのか?」と。
「何ヶ月かかるか分からないけどね」と伝えると、彼はカバンの中から大量の黄色い紙を持ってきた。これを中国まで運んでくれないか、というのだ。
 英語、そして見知らぬ言葉で書かれた文字。
 本文を読んで、理解できた。
「これは、厄介な手紙だねえ……」
 端的に言うと、それは在インドのチベット人たちがチベットにいる人々へ宛てたビラだった。英語の文面を読んでいる限り、独立が云々とか過激なことは書かれていなかった。ただ、この3月というのがダライラマ14世が亡命して41年目になる月であるということ、われわれはあなた方のことを忘れていないということ、そうしたことが書かれていたと記憶している。黄色というのは、もちろんチベットを象徴する色。白黒だったが国旗も印刷されていた。
 彼はちょうどチベットの亡命政府があるインド北部のダラムサラからデリーに戻ってきたところだった。ダライラマには会えなかったよ……とボヤく彼の言葉を何度か聞いていた。チベット仏教には多大な関心があるらしい。現地でチベタンたちのビラを大量にもらってきて、それを母国に持って帰ろうとした。でも、中国に行くなら半分、持っていってくれないか、ということなのだ。
 さて、これはリスキーな頼まれ事だ。
 ビラの中身は温和しいモノである。でも、それが中国当局を刺激しやすいモノであるというのもまた事実だ。国境で見つかったら、どうしよう。陸路で中国に入るときは荷物検査は厳しいと聞いている。ビラが見つかれば確実に入国拒否だ。
 最初は断ろうとしたんだけど、ぜったい大丈夫だ、というオランダ人の言葉を聞いていて、ちょっと興味とイタズラ心が湧いてきた。ネパールやパキスタンから入れば警戒は厳しそうだけど、中央アジアからならイケるかも。


 それから、僕は、インド→パキスタン→イラン→トルコ……と、ヒマラヤ山脈を迂回するようにして旅を続けた
(下はバキ・イラン国境を越える国際列車で一緒になった子。アフガン難民のハザラ人。9.11の1年前でした)。

 イスラマバードでもテヘランでもウズベキスタンのビザが取れなかった。イスタンブールでは旅行会社に120ドルのスペシャルプラスを払ったにもかかわらず、なんだかトルコとウズベクの大統領がケンカをしたとか何とかで3週間待たされた。さらに、「中央アジア北朝鮮」と揶揄されていたトルクメニスタンのビザが取れない。
 知っている人は知っていると思うのだけど、中央アジアって旧ソ連からの悪弊もあって、僕のような個人旅行者を歓迎してくれなかったのだ。だからビザを取るためには多大な手間とカネを求めてきた。数週間待ちというのは当たり前。そのマゾ的な嫌がらせを快感と思う人間しか中央アジアへ行くことはできない。

シルクロード―中央アジアの国々 (旅行人ノート)

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シルクロード 中央ユーラシアの国々

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 だんだんウンザリしてきた。と共に、安請け合いしてバックパックの底に100枚ぐらいあるチベット行きの黄色いビラの重さにも困惑していた。長旅をしていると、できるだけ荷物は軽い方がいい。自分には不必要なはずの紙の重みが両肩の負担になっていた。
 デリーを出てから2ヶ月後の5月。ようやくウズベキスタンのビザ取得。トルコ東端の港町トラブゾンからバスを乗り継いでグルジア入国。夜行列車でアゼルバイジャン。貨物船に便乗させてもらって船でカスピ海を渡ってトルクメニスタン。砂漠の中を長距離列車で突っ切ってついにウズベキスタン(青いモスクで彩られた街は印象的でした。特にヒヴァの旧市街)。紛争地帯を避けながらキルギス
 そして、賄賂を求める警官と国境で大喧嘩しながら8月にカザフスタンに着いた。


 アルマトイからは中国・新疆ウイグル自治区の首府、ウルムチ行きの国際列車が走っている。2泊3日の旅だ。
 切符はとれた。これで中国に入国できる。
 見つかったらどうなるんだろう。そこから先が不安だった。
 そして国境のドルジバ駅。ここで国際列車は6時間ほど停車する。カザフスタンの鉄道のレール幅は1524mm。中国は1435mm。そのため、ここで台車と機関車の交換をする必要があるのだ。

 そしてパスポートチェック。出国のカザフ側は問題がなかった。
 続いて、中国側の機関車と食堂車が加わり、出発。無人の砂漠地帯を抜けて国境へ向かう。
 そして最初の街にあるのが阿拉山口駅。砂漠のど真ん中に国際鉄道のためだけにできた感じの人口的な街だ。
 さて、カバンは大丈夫か……と気にしたんだけど、結果的には僕にはノーチェックだった。隣室のイスラム系っぽい人はいろいろ調べられていた。
 ここは東トルキスタン。もともとはイスラム系の人たちが居住するエリアであり、チベットと同様、19世紀後半になって漢人たちによる支配が強化されたところだ。チベット以上に、独立運動が盛んなところ。イスラムっぽい人は要チェックなんだろうけど、日本にはムスリムが皆無ということは知っているんだろう。有り難かった。
 そして、列車は3日目の昼間にウルムチ駅へ到着。その日の夜、南疆鉄道の夜行列車に乗って、砂漠を南下し、さらに2泊3日。
 デリーを出てから5ヶ月。ついに僕はウイグル最西端のカシュガルに到着した。
 ここで僕は別な旅行者を探さねばならない。次の仕事&コミックマーケットの関係で8月半ばまでに日本に帰らねばならない。チベットまで行く時間がないのだ。
 この街の安宿に行くと、タクラマカン砂漠の最西端から、西チベットの奥地の神峰カイラス、そしてチベットの中心地ラサへ行く旅行者は何人もいる。
 その1人に声をかけた。やたらとノリのいいスウェーデン人。彼は複数で4WDをチャーターして、ここから何千キロも続く無人の荒野を3週間かけて抜けていくんだという。
 事情を話すと、チベットまで持っていってくれるという。いいのか、と念を押すと、
「おまえ。インドから持ってきたんだろう。ラサまでたかだか3週間の行程だ。問題ない」
と快諾してくれた。


 その後、僕は鉄道で上海に向かい、日本へ帰った。
 チベット語で書かれたビラの行方はしらない。政治色の薄い内容だったし、それで何かが変わるとは思うほど楽天家でもない。
 ただ、ダラムサラから、インド在住の亡命チベット人→オランダ人→僕→スウェーデン人→(たぶん)チベット人......と手渡されてきた黄色い手紙。それを見た現地の人たちが、お節介な外国人旅行者たちのことを想像してくれたらいいなあ、と心の底から思っている。


 その5年後の2005年。僕は初めてチベットへ行った。12月のクリスマスのあたり。ちょうど「ツォンカパの灯明祭」が催されていて、ラサの中心部にあるジョカン(大昭寺)とその周辺は夜になると灯明で一面が埋め尽くされ、バター油の匂いと温かさが街中を覆い尽くしていた。高山病にもかかわらず、その幻想的な風景に惹かれて、夜な夜な街中を歩き回っていた。



 さらに、3年経った2008年3月。そのラサのジョカン周辺で起きたチベットの自由を求めるデモをきっかけに大量の虐殺が行われた。「2008年のチベット騒乱 - Wikipedia」。
 それから1年。2009年。再び、春が訪れた。2009年3月10日は、1959年のチベット蜂起から50年目に当たる節目の日だ。
中国が外国人のチベット訪問を全面禁止ダライ・ラマ法王日本代表部事務所、2/18
とあるように、チベット自治区観光局は、3月1日〜31日の間、チベット自治区へ入境する許可書の発行を停止した。個人客もツアー客もこれでチベットに入ることは出来なくなった。
 そして、四川省チベット人の多く住むエリアでは、
チベット・アバの僧侶が焼身自殺を図り、射殺されたチベット式:、2/28
のような事態も起きている。

チベット―全チベット文化圏完全ガイド (旅行人ノート)

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 こういうとき、どうすればいいのか。よく分からない。よく分からないから、この想い出を書いてみた。黄色い手紙がチベットに届けられることを。そして、お節介焼きの外国人旅行者たちが現地に潜り込んで、今月、そこで起きることを伝えてくれることを信じたいと思う。<参考>