70年代後半の「ブルトレブーム」と「富士」・「はやぶさ」の最期

katamachi2009-03-13

 今から約30年前の1970年代後半、「ブルトレブーム」というのが鉄道趣味界を席巻した。
 その中心となったのは幼稚園児から中学生ぐらいの子供たち。世代的に言うと、昭和40年代生まれ、2009年現在、35〜45歳ぐらいになっている層に当たる。
 そのちょっと前。1976年前後に、「スーパーカーブーム」というのがあって、小さなお友達は児童向けの図鑑や写真文庫を買い求めて、ランボルギーニとか、フェラーリ、ポルシェなどの超高性能乗用車の車種を一生懸命、覚えた。一番人気は、もちろんランボルギーニカウンタック(異論は認めない)。消しゴムとかシールとかを集めてはみんなで自慢しあったモノだ。
 そのブームの延長線上に、ブルトレブームがあった。1977年頃から、国鉄ブルートレイン、そして特急へと子供たちの興味が移っていったのだ。
 その背景には、

  • 70年前後 昭和20年代生まれ(現在、55〜65歳ぐらい)を中心とした「SLブーム」(蒸気機関車)の出現→趣味人を越えたブームの広がり→鉄道趣味というものが自他共に認められていく
  • 1975年 国鉄線での蒸気機関車のラストラン→昭和20年代生まれのマニアたちの"卒業"→鉄道趣味分野の急速な縮小
  • 1976年 財政再建を目指した国鉄が運賃・料金の50%値上げ→ブルトレや特急、新幹線など中長距離列車の利用者減→労使関係の悪化や深刻な赤字などもあって国鉄の先行きが危ぶまれていく

という状況があった。
 ある意味、鉄道趣味界、そして国鉄が先行きを見通せなくなった時期でもあった。
 その一方、SL亡き後、そのブームから取り残された世代がブルトレや特急、鉄道旅行の楽しさに目覚めていき、それを見た一部の子供たちが追随。全国的な広がりを見せた形になる。

ブルトレブームと、その中心となった東京駅発のエースたち

 その中核となったのが南正時のケイブンシャ文庫での鉄道本シリーズであり、川島令三も含めた鉄道友の会の若手メンバーが執筆した小学館コロタン文庫であり、イラストと写真が豊かな学研や小学館の出した鉄道物の図鑑であった。
 幼稚園児だった僕は、京阪電車京都市電と山陽新幹線とEH10と「比叡」で自分の深層心理に秘められたマニア心に目覚め、自覚的に行動し始めた。親にねだってその手の本を買い漁り、ヒマがあれば鉄道趣味知識の吸収に力を入れた。
 そんな小生意気なガキは自分だけではなかった。同世代の鉄道マニアの誰もが類似の体験を経ている。そして、ブルートレインというのが、なんだか流行モノらしいということに気付かされる。
 最初に山が動いたのは1976年か1977年頃だったと、同世代の連中はみんな懐古する。1976年10月に24系25形が投入され、1人用個室A寝台という特別車が登場したことも大きかった。
 そのエースは、東京ブルトレ

 それに「出雲」、下関「あさかぜ」、「瀬戸」なども追随する。

 そのブルトレにもランクがあった。

レベル 愛称
さくら、はやぶさ、富士、あさかぜ、みずほ、出雲
瀬戸、いなば、紀伊
明星、あかつき、彗星、ゆうづる、あけぼの、北陸、日本海
安芸、北星、つるぎ
番外 なは、金星、はくつる

 これは、僕が小学一年生の時に決めたランク表。距離呈、歴史性、食堂車やA寝台の有無、僕の直感などで決めた。異論は認めない。
 S級のブルトレは特別だった。これを読んでいる人には説明はいらないだろう。なにより、S級の列車を牽引するEF65-500の頭にはヘッドマークが付いていた(直流区間のみ)。これが素晴らしかった。国鉄の合理化や労使関係の悪化もあって、脱着が面倒なヘッドマークは、九州島内や他ブルトレからは外されていた。東京口ブルトレのみに許された栄光。大阪在住のマニアとしては、それが妬ましくあり、また羨ましくもあった。
 それゆえに、東京発の九州ブルトレは、特別な感慨を持ってマニアたちから評価されることになる。
 この中でナンバーワンは何か。
 名称&距離呈という点では「富士」が最有力。あの富士山のマークも素晴らしい(当時は丸形でした)。日豊本線経由というのが玉にきず。そもそも、二線級のこの路線を通るブルトレに「富士」という名前を付けること自体、なにかが間違っている。と、小学一年生ながら思っていた。

 距離はやや短いけど、博多「あさかぜ」を挙げる説も有力だった(下関止めは論外)。

 当然、僕も親にねだって大阪駅まで見に行った。まだ、当時、「日本海」、「明星」、「彗星」、「あかつき」……キラ星の如く、青い色をまとった列車がホームを発着した。僕の憧れはEF65-500になり、24系や14系となった。幼稚園児だったんでカメラとかは持っていない。でも、その時の風景は鮮明に焼き付いている。
 子供たちの関心は、ブルトレの仲間である特急電車へも広がっていく。181系、183系、189系485系、489系、583系……一生懸命車番を覚えて、列車愛称名と運転区間、その特徴も暗記した。
 それだけでは飽きたらず、こども向け入門書のスミにあるような情報。たとえば東京・札幌五輪の時に走った特急「オリンピア」とか、C11が「さくら」を牽引していたこともあるとか、トラブル時にブルトレが走った迂回ルートとか、カプセル型の簡易コンクリ駅舎が最初に導入されたのは三木線国包駅とか、どうでもイイことを30年経った今でも記憶の片隅に残っている。
 なんでそんなことを覚えようとしたんだろう。他人から見ると不可思議なところも多々ある。ただ、今から思い起こすと、幼すぎたんで、自分の大好きな鉄道についてどうやって愛せばいいのか分からなかったんだろうと思う。だから、好きなことへのあれやこれやについてたくさん知ろうとした。知れば、なにかが分かるような気がしていた。それはガキながらの愛情表現だった。

絵入りヘッドマークの登場。そして初めてのブルートレイン

 僕が小学一年生になった1978年頃から、無法な子供たちに対する批判が集まってくる。安物のカメラを持った小中学生たちが東京駅や上野駅大阪駅などに連日詰めかけて、白線を越えたりとか、ホーム進入中に近づいたりとか、フラッシュを焚いたりとか、まあいろいろやっていたんだという。新聞がそうした現象を叩いているのを、後年、縮刷版で読んだことがある。鉄道趣味誌もマナーの悪い子供を批判した。
 なにより年長のマニアたちがそうしたガキたちを嫌がった。自分たちと一緒にされたくなかったんだろう。
 とか何とかいう状況になっているのだけど、この現象に一番興味を示したのは国鉄当局。1978年10月改正で、電車特急40種(除くボンネット型特急)に絵入りのヘッドマークを付けたのだ。それまでは、先端部分の列車表示装置には、「くろしお」とか列車愛称名が日本語と英語の文字で記されていただけだった。そこに、カラフルなイラストが印刷されるようになったのだ。
参考http://www.railway-museum.jp/exhibition/179.html
 これが火に油を注いだ。バラエティー豊かな電車特急が発着していた上野駅には、カメラ片手の小中学生たちがさらに殺到してきた。国鉄も立入禁止場所を設けたり、警備の職員を配置してロープを張ったり、それなりに対応を始めた。いろんな業者がヘッドマークを集めたグッズを発売する。
 僕が愛用したのは、交通博物館謹製の下敷き。
 小学二年生になった1979年夏には、ブルートレイン全種の客車最後尾にテールマークが出現。もう少し遅れてボンネットタイプの電車特急にもイラストが登場する。
 ああ、そう言えば、この年、C57牽引の「SLやまぐち号」も登場したなあ。年上の連中は煙突がどうだとか、12系客車は論外とか批判たらたらだったけど、SLの現役時代を知らない自分には、また新たな目標ができて嬉しかった。あと、ミステリー列車銀河鉄道999号」の運転もこの年。映画とのタイアップ企画だったが、まさか終着駅が烏山駅という超地味な駅になるとは……ある意味、ちょっとショックだった。東京駅発ブルトレEF65-500から1000に切り替えられたのもこの年か。
 僕が初めてブルートレインに乗ったのは、その翌1980年の正月だった。千葉の従姉妹の家に遊びに行った帰り、ブルートレインに乗せてくれるのだという。
 時刻表を買い求めて、あれやこれや両親に指南する。とりあえず、「富士」か「あさかぜ」が良かった。A個室じゃなくてもイイから、どちらかにしてくれ、と頼んだ。
 ただ、母親が買ってきたのは「さくら」。しかも、東京〜大阪間だった。翌日、父親の仕事があるんで九州まで行く余裕はないと言う。オカネもかかるし、と付け加えた。いろいろ駄々をこねたが、変更は認められなかった。
 1980年1月4日、交通博物館上野駅で電車特急見物をした後、東京駅へ向かった。
 16:30発。1レ。14系B寝台の一角に家族4人で陣取った。
 当日、やたらと興奮していた。食堂車でスパゲティーとカレーを食べて、サイダーとコーラを飲んで、やたらとはしゃいでいたのを記憶する。
 大阪駅着は23:53。興奮と大食いで乗り物酔いをしてしまい、ホームの片隅でげろげろ吐いていた。
 これで消化不良のまま、わずか7時間の初ブルトレ乗車は終了。もちろん、一睡もしていない。29年経った今でも、あの時、せめて九州まで行けたら良かったのに……と、いろいろ思うことはある。

ブルトレブームの終焉と終わりの始まり

 1980年春。僕は小学三年生になった。
 そしてこの頃には、子供たちのブルトレ&特急ブームも収束した。
 きっかけは特にないんだろう。1978年の絵入りヘッドマークでブームが加速したことで、逆に熱が冷めるのも早かったのだろう。僕的には、1981年春、派手な色だけど中身は117系レベルという185系特急「踊り子」が登場したことで、もうダメだなあと思った。
 ブームが終わっても、僕のように鉄道にこだわりを続けた残党はたくさんいた。3、4年の趣味活動を経たことで、軌道修正しながら生き残りを図る。いつまでも特急の絵入りヘッドマークを追ってばかりもいられないんでね。その多くは鉄道旅行派に転じて、ローカル線主体に、客車急行なんかにもこだわりを始めた。
 この年、僕も宮脇俊三の著作を読んで、鉄道旅行の方にシフトしていく。

  • 1982年、小学五年生

 東北・上越新幹線開業で盛り上がった一方で、上野発着の電車特急の多くが淘汰された。1人で日帰り旅行を始める。

  • 1984年、中学一年生

 国鉄の大粛清、始まる。吹田操車場に溢れた何千両ものの廃貨車の列にショックを受ける。14系カルテット登場。泊まりがけの一人旅で北海道行き。「ゆうづる」乗車。

  • 1985年、中学二年生

 この年、東京駅発の直流ブルトレ以外の各機関車にもヘッドマークが登場。食堂車や寝台の改造も実施。ロビーカー登場。特急気動車にも絵入りヘッドマークが付けられた。でも、1978年頃のようなブームは起きなかった。あれから7年。それぞれオトナになったマニアたちは、それぞれの楽しみ方を学習していた。僕は九州・東北・山陰でローカル線巡り。「日本海」と「あかつき」乗車。

  • 1987年、高校一年生

 国鉄分割民営化。4月1日時点では、ブルトレの本数そのままで新会社に引き継がれる


 その後は以下の通り。

  • 1993年 「ゆうづる」・「出羽」廃止
  • 1994年 「みずほ」・博多「あさかぜ」・「つるぎ」廃止
  • 1997年 「鳥海」→「あけぼの」。実質的に陸羽東線経由の「あけぼの」廃止
  • 1998年 「瀬戸」・出雲市「出雲」が「サンライズ」化
  • 2002年 「はくつる」廃止
  • 2005年 「さくら」・下関「あさかぜ」・「彗星」廃止
  • 2006年 「出雲」廃止
  • 2008年 「なは」・「あかつき」廃止、「日本海」・「北斗星」減便



 この間、「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」が登場したり、「サンライズ」、「カシオペア」の新車も登場したが、衰退基調を止めることはできなかった。本来のブルトレの利用者だったビジネス需要が皆無となってしまっては致し方ない。
 鉄道マニアにとっても、若い世代にはブルートレインというのは遠い存在のようだ。廃止モノとしての関心はあっても、あまり日常的な存在ではないらしい。70年代後半のブルトレブームを知っている世代は、毎年、各列車の廃止報道がなされるとやたらと盛り上がっている。懐かしきB開放式寝台は、ブームから数十年、中年と成り果てた鉄道マニアたちでいっぱいだ。でも、それも、幼き日の想い出を消費しているだけに過ぎない。そんな自らの原風景に対する渇望というのは、どんなジャンルであっても趣味活動をしている上では前提としてあるのだろう。自分にもそういう気持ちは根底にはある。消えゆく「富士」と「はやぶさ」への感傷を言葉にしたくて、こんなノスタルジックで冗長なエントリーを書いてみたのだけど、それはまた別の話。<参考>