何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差

 田舎のジャスコは「東京」が再現されている。売っている物も歩いている人の服装も全く同じ。10年前には信じられなかったことだが、今、渋谷の10代のファッションと三重のジャスコのファッションがまったく同じなのだ。これには感動した。
Togetter - まとめ「田舎のジャスコは「擬似東京」!渋谷=三重のジャスコ。レベル的に。

 10代のファッションで都市と地方との「文化」を語るって勇気があるなあと思ったりもした。Twitterポジショントークって、はてな以上に難しいなあとも感じたりした。
 ただ、文化的独自性とかではなく、「疑似東京」がそこにあるかどうかという立脚点ではまさにそう。この人の指摘する渋谷と三重のジャスコの同一性を否定することもない。
 偶然にも、昨日は、うちの家からクルマで10分にあるイオンモールに行って、そこで買い物をして、本屋で1時間品定めして、飯を食って、シネコンで「借りぐらしのアリエッティ」を見て(愕然として)、スタバでお茶をして家に帰る……という、ある意味、理想的なイオン生活を送っていた。
 そして、それで僕たちが、そこに"東京"が再現していると感動するかというと、まあありえない。もちろん10代の子供たちも、そこに「渋谷の10代のファッション」とまったく同じなのだと感動することはないのだろう。

イオンモールで東京を模倣しても、誰でも模倣して追随できる

 イオンモールには、"東京"というエッセンスを薄めた物があるかもしれないが、欲しい物は存在しない。あくまでも欲しい物によく似たアイテムがあるだけだ。東京の物ではないという「妥協」で満足できる、あるいは代用物であることに何ら疑問を持たない消費者がそこで買い回りをするのだ。
 それは、大阪などで大都市生活を長らく過ごしてきた自分にとっては当たり前の商行動である。連れ合いも同様だ。ここでファッションやコスメの欲しい物を買うことはない。欲しい物は京都や大阪で済ませている。ここにあるとすれば、代用できるレベルの物だ。
 本屋さんも、町のロードサイド型の書店と比べると、単行本や文庫本、専門書、マンガともに品揃えは充実しているようにも見える。平日夜に郊外型書店になかった本を2冊買い求めた。でも、欲しかった本はここには存在しない。
 ファッションでも本でもそうだけど、ちょっと充実しているようには見えるけど、大都市部の専門店と比べればかなり見劣りする。
 それに、大前提としてイオンモールは若者のファッションに特化した空間ではないし、数的集まりの弱さは圧倒的である。「疑似東京」ではあるけど、ホンモノとの格差ははてしなく遠い。それを同レベルとしてしまうのは、正直、疑問を抱かざるを得ない。


 それは10歳代の子にしても、そうだ。なんとなく聞いたことのあるメーカー、先進的なものに類似したメーカーのものは揃っているかもしれない。でも、質でも面でも充実しているのかというとまた別な話。
 仮に、そこの店の1つに入って、最先端のファッションをまとったとする。
 でも、それはイオンモールに行けばあることを誰もが知っているのだから、次の週末に同じ店に行けば誰でも模倣できる。東京の模倣を模倣するのは非常に容易いのだ。むしろ、地方都市の繁華街に片隅に店を構えているセレクトショップの方が多種多様な服飾と出会える可能性は高くなる。美容室の選択という過程もそう。そこらは10代半ばの子は知らないんだろうけど、10代後半になるとそこらの目利きができるか否かも自己表現の能力へと繋がっていくことになる。
 あと気になるのは、「ジャスコには貧乏人はこないので、駐車場はトヨタの大型車ばかりです」という点。
 いやあ、大型車というかノアとかセレナとかエスティマとかのミニバンって30歳代以上のファミリー層ですよね。三重のジャスコのファッションの担い手であるナウなヤングは軽自動車か小型車に乗っているよ。
 まあ、イオンモールの表面的なところを指摘して「なんでも揃う」「祝祭空間」としてしまうところに、ポジショントークとしてもヤリすぎな所を感じた。
 イオンモールの田舎での位置づけは、ファミリー層における週末レジャーの有力な行き先という点である。それはそれで地方の日常的な生活行動で重要な役割を果たしている。なにより子供が喜ぶ。
 そういうレジャー空間が出現するというのもありだとは思う。

「原宿ってサイコー、●●なんてサイテー」を繰り返す田舎の女子高生

以前、「はてなブックマーク - 道行く人を皆馬鹿にする女子高生3人組を見ながら思ったこと - 諏訪耕平の研究メモ」のブクマで書いた話をもう少し詳しく紹介する。
 ある日、米原発の東海道本線下り新快速に乗っていると、僕とクロスシートのボックス4人席で女子高生3人組と同じになった。
 赤えんじ色のジャージを着ている3人のうち、リーダー格の子1人。茶髪で髪はかなりいじっている。残り2人は黒髪ロングで、どちらかというと地味っぽそうだけど軽く化粧をしているって感じ。
 リーダー格の子は、座席の上であぐらをかきながら、なんか無頼を気取ったような物言いを繰り返していた。公共空間におけるお行儀としては褒められた物ではない。
 斜め前に座っている僕の存在を完全に意識していない。と言うより、僕という他者を完全無視する態度をすることで、自分がこの空間の主であることを主張したいんだろう。自分が世間に斜を構えているという、そしてこの世界のことを何でも知っているという自己演出をしたがっていたように僕には見えた。
 彼女の無礼な態度を僕がどう見ているのか。ちらちらと僕に視線を移すお供2人との「格差」はすでに学校内というレベルで完成されているのだろう。
 リーダー格の女の子の自己主張の強さは、会話からも察することができた。
 先週、原宿に行ったというのだ。あそこには自分たちの求めていたあらゆる物がたくさん並んでいた。お金の限界があるんだし.....とひとしきりバイト代の安さと店長のバカっぽさを罵倒したあげく、その時の獲物をお供の2人に見せびらかせる。なんだか安物のアクセサリーだけど、それは彼女にとって東京を象徴する物なんだろう。
「わーすごい」と相槌を打つ。お供の2人。凄く真剣なヨイショを続けるが、なんとなく空々しい。3人の関係というのもなんとなく想像できる。
 そして続いたのが、彼女たちの街、近●八幡への罵倒の連続。特に、滋賀県東部・北部では若者向けファッションの店舗が多いと評価されている駅東口のマイカ近江八幡への悪口が続いた。あれでも全国数少ないマイカルタウンの1つだし、イオンモールともさほどレベルは落ちないと思う。でも、あそこで買い物をしている人たちは何も分かっていない。本当の物は原宿にこそあると力説を続ける。
 この後も、ひたすら「原宿ってサイコー、●●なんてサイテー」とかそんな話ばかり。自分がいかに優れた物や人と出会っているのか。その代わりに、アレやソレは最低。そんな品定めがひたすら続いた。
 次第に、リーダー格に相槌を打つ2人の"友人"達の同調っぷりがカワイソウになってきた。なんで、こんなリーダーについて行くんだろうか。
 やがて近江八幡に停車し、彼女たちは降りていった。駅近くの●●●でのバイトがあるらしい。 また原宿に行くための努力がこれからも続くんだろうか。

東京に特別な意味を見出さなくてもいい生活者の出現

 さて、前半で田舎のイオンモールを巡る模倣の浅さを指摘し、後半では、田舎の大規模ショッピングセンターではないものを東京に夢見る女子高生の会話を紹介した。地方にいても「東京」に触れることはできるが、その模倣のレベルが表面的である。だから、なおいっそう「東京」への憧れが歪に強くなっていく。
 それらの一方で、田舎に土着する若者が現れてきているというのもまた事実である。
 仕事すらない人口5万人以下の地方小都市はともあれ、県都とか地方中枢都市とかの街並みがあれば、そしてイオンモール的な物が40km圏内に1つあればそれで十分という生活スタイルも成り立つ。
 三浦展は「ファスト風土」という言葉で、「地方社会において固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、ファストフード店レンタルビデオ店カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ風景が全国一律となったさま」(はてなキーワードより)を描いている。

下流同盟―格差社会とファスト風土 (朝日新書)

下流同盟―格差社会とファスト風土 (朝日新書)

脱ファスト風土宣言―商店街を救え! (新書y)

脱ファスト風土宣言―商店街を救え! (新書y)

 そこに絶望を抱くことは簡単だと思う。三浦自身は昔からのコミュニティや街並み、社会構造が解体されていくことを嘆いてみせ、ポスト「ファスト風土」な提案を模索しているようだが、それはそれでありだと思う。
 でも、彼の描くようなシンプルな構造だけがイオンモール、そして媒体が異なるが大規模ショッピングセンターで行われているわけではない。
 今、地方の田舎には、東京に過度に依存しなくてもなんとなくやっていけるような層がたくさん出現している。
 クルマの値段とか東京舶来のもとかにこだわらず、かといって地元に根付くヤンキーとか社会から逸脱することすらも目的としない。
 「どっか旅行とかいかないの」「大阪とかこんなことがあってね」と話題を振っても、「いつかは行ってみたいですね」と、さほど興味を示さない。行きたい地名、興味のある事象はそこには出てこない。興味はあるが、そこは自分たちとは別物であると割り切りがあるのだろうか。旅行に行かないし、というか、ちょっと離れた大都市まで買い物に出かけようかというほどの意欲もない。
 クルマもそうだ。車の車種が若者にとってさほど意味をなさなくなってから10年以上経つ。地方の若者はみんな軽や小型で満足している。親のクルマとの共有にも抵抗感はない。
 人間関係も広がりが地元に土着している。まったりと、友人の紹介でパートナーを見付け、街に与えられたイオンモール的なところで月に数回訪れ、近場のデートコースを回り、淡々と20歳代のうちに寿を迎えていく......。ネットで喧伝されている非モテとかパートナーを頻繁に変えてとかなんとか、そんなエキセントリックさは彼女彼らからはあまり感じられない。

「若者の宣伝広告離れ」と東京との格差が問題視されない時代

 おそらく80年代のパルコの時代からバブル、そして90年代へと続く、広告宣伝の波にもうみんな疲れてきたんだろうな。メディアや広告代理店、大企業はなんかと一生懸命、付加価値・差異化を目指してアピールしているけど、その押しつけがましさに、正直、飽きたんだ。「若者のクルマ離れ」や「若者の旅行離れ」といった現象の背景には、「若者の宣伝広告離れ」が大きいかもしれないと最近考えるようになってきた。
 ここ30年来の広告代理店が目指したのが、東京的なモノの全国的な普及であることは自明であった。イオンモールもその1つと仮定しよう。東京には何でもあるという願望が1つの文化を形成してきたのは間違いない。
 その情報ギャツプを埋めることを熱望するがゆえに、優秀な高校生たちは東京の大学への進学を希望するし、就職組も大都市への仕事を求めてきた。
 一方、地方在住組は月に1〜3度くらいのペースで、たとえば四国や和歌山、奈良の若者は京阪神に、九州島内の若者は福岡に、北海道だと札幌へ向かった。東北だと東京に直接行きやすい。オタクはアキバに集まり、女子中高生は原宿で心ときめかすのも、そうした東京との情報ギャツプを埋めることに意味があると感じていたからだろう。確実に、田舎という空間において、そのギャップが他者との差異化に有効だった時代はあった。
 でも、地方の若者でも趣向は、中央の人間が思うほど画一的ではない。東京に差異化を求める人はひたすら東京に何かを求めていくし、東京的なものに意味を見出さない人はそれなりの生活を送ることができるようになっている。そこそこの田舎。たとえば三重県ジャスコがあるレベルの小都市だと、わざわざ大都市まで遠征して買い物をするのは億劫だ、という意識の若者がいるのも事実だ。
 大量宣伝大量広告という常識が意味のない時代になってきたのかもしれない。そんな今、東京に幻想を抱くこと=差異化であるという発想自体が問い直されていると僕は思う。
 でも、代理店とか大企業の視点は変わらない。
 「最近の若者は物欲への願望が薄れている」という観点から若者の消費刺激策を展開すべきという政府や商業者の思惑もあるようだが、それは当事者が誰も求めていない事業に税金が注がれておしまいにならないのだろうか。
 たとえば観光庁のやる
「第一回若者旅行振興研究会」を開催しました!(概要報告) 〜若年層旅行市場の振興に関する検討を行いました〜
 リクルートのレポートの最後「IT化と世界にひとつだけの花」に苦笑。「大学生をメインターゲットとし、何か施策を検討すべきである」ってなあ。あざとい施策や仕掛けに疲れたからこそ、今の消費不況があるわけで……
 そんな時代に、地方都市が地元在住の若者に何を提供すべきなのか。ちょっと難しい問題だ。なにかさらなる問題提起ができないのか......と考えていたら眠くなったんで、そこらはまた別の話。