鉄道マニアたちは自分の描く世界観(鉄道イメージ)を他者と共有できるのか(前編)

katamachi2011-06-08


 先日、朝日新聞原武史の「記憶と深く結びつくローカル線をまず走らせて日常を回復せよ」って談話に関して疑問を呈した記事「「鉄道の将来を案じる政治学者原武史さん(48)」を案じる。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」を書いた。彼がローカル線の行方を心配するがあまり、「新幹線は、日常性から切り離された乗り物です。東北で毎日乗る人はまずいない」とか「東北の人にとって、鉄道は精神的なものに深く結びついているんです」とか事実を超越した発言を繰り返しているのが引っかかったのだ。「自分の描いた物語や構図に固執し、実証性には無頓着な人だなあ」という認識を僕は抱いた。
 twitterやブログなどでの反応を見ていると、彼の物言いに疑問を感じる人はそれなりにいたみたい。みなさんが引っかかったのは、現地被害状況を無視している、JR東のローカル線復活させます発言をスルーしている、新幹線の重要性を理解していない、鉄道経営や技術について不勉強だ、現地の鉄道の最新情報に詳しくない……という点だった。
 それは僕も感じた。感じたのだけど、事実関係の歪みを指摘するのならともあれ、彼の描いた「ローカル線>>>>>>新幹線」って世界観そのものを否定するのはなんだかなあ、とも感じた。
 僕も含めて、鉄道マニアの多くは、自分の好きな鉄道に対して独自の世界観を持っていると思う。その鉄道イメージは趣味活動をする上でのベースとなっている。

僕がローカル線に関して抱いている世界観

 たとえば、国鉄系のローカル線に関して、僕の抱く世界観というのは以下の経験に依拠している。

  • 最初の出会いは1980年に読んだ宮脇俊三の著作。彼の影響でローカル線に興味を抱いた
  • 中学生になった1984年から実際のローカル線を訪問して乗車を始めた
  • 「チャレンジ20000km」的な手法は半年ほどで断念。以下はマイペースで続けて1990年にJR全線完乗した
  • ローカル線も国鉄もなくしてしまえって政府自民党のやり方にはかなり抵抗があった
  • 分割民営化とローカル線切り捨てが進んで正直がっかりしたが、それは仕方なかった側面もあると認識した
  • 青木栄一の論考を読んで、ローカル線への思い入れはともあれ、どうしても鉄道として維持しなければならないのか(バスではなぜだめなのか)という視点を得た。また、宮脇のエッセイを読んで、趣味人としての自分と一国民としての自分は別物であると気づかされた

汽車との散歩

汽車との散歩

 まあ、ぶっちゃけ、30・40歳代に多い宮脇チルドレンの1人で、最近だと「乗り鉄」と分類されるのだろう。 
 一方で、80年代後半に高校生となってあちこち出かけていろんな人や本と出会うことで、鉄道趣味にはもっと多様な切り口が存在することを学習した。80年代と同じセンスのままでは趣味活動を続けにくいという認識もあった。ブームの延長線上で活動していると早晩煮詰まると自覚したからだ。ここ20年ほどは、単にローカル線に乗るだけでなく、途中下車しながら町歩きをしたり、海外に渡航したりと多面的に接するように努めている。
 最近は、ローカル線なんかいらね、と言い切る妙に醒めきった人もいるけど、ちょっと僕のスタンスとは違う。基本、自分の趣味の原点であるローカル線が好きなマニアなんです。そこは否定できないんです。ただ、マニアが「べき論」で語る80年代っぽいローカル線至上主義的な考えにも抵抗はある。地域交通を残していくかどうかは、政府が決めることじゃなく、地域の自治体や住民が自分たちのこととして考えていくのが大事なのでは、と思うに至っているからだ。1人の趣味人としては、現実と夢の狭間に浮き上がってくる状況を消費していくしかないのかなあとは思っている。
 もちろん、これは僕個人のローカル線に抱く世界観だ。僕のイメージする姿は、他の方が抱く世界観とイコールではない。上で「分割民営化とローカル線切り捨てが進んで正直がっかりしたが、それは仕方なかった側面もあると認識した」と書いたが、異なる考え方の人もいるだろうし、そもそも物心ついたらJRになっていたのでどーでもいいやという若い人もいる。こだわりのポイントが人によって違う。
 実際、宮脇俊三の影響を受けたと公言している点では原武史と一緒なのだけど、発想はだいぶん違う。趣味に対する距離感は違うし、同じ体験や考え方をしているはずもないのだし、当たり前だ。
 鉄道趣味においては、住んでいる場所で嗜好はかなり左右される。年齢、趣味への距離感、そして友人関係の有無によって接し方も異なる。それでも、知識と経験を重ねれば独自の見知が広がることを知っているから、さらに深めようと努力していく。そうした視点の違い、独自的な考え方もまた鉄道趣味をする上で大切なスタンスとなってくる。

鉄道マニアたちが知識を集めることに一生懸命な理由

 マンガや小説だと、趣味をする上で消費者それぞれが共通認識を持つベースとなる物語が存在する。
 アニメや映画が好きなら当該の作品を視聴すればいいし、アイドル好きだとCDを買うかコンサートへ行くか。お金を使わなくてもコンテンツを消費すればそれで趣味というのは成り立つ。なにが商品で、なにを消費すればいいのかが自明である。大塚英志が物語商品論を展開したことでその独自の意味合いも理論づけられていった*1

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

 その点、鉄道趣味の世界は、なにを消費し、なにを構築しているのか分かりづらい側面がある。当の本人も自覚していない。だから、趣味の世界でなにをやっているのか、周囲に理解してもらいにくい状況がある。
 そこに鉄道趣味の独自性がある。
 すなわち、

  • 鉄道の運営組織は、基本、他者が所有する公共物である。鉄道という輸送システムは趣味人のために存在しているのではない

という点だ。自動車のような個人所有は不可能だ。好きな人たちはそれぞれが自分独自の愛情をぶつけているが、公共輸送機関という使命をもった鉄道はなにも語りかけてくれない。最近でこそマニア相手の商売も目立つようになったが、鉄道会社にとっての本来的業務ではないのは十分承知している。
 だからこそ、マニアたちは、自分ならではの世界観(鉄道イメージ)を構築するために独自の切り口を見つけ出そうとする。
 物言わぬ輸送機関のあちこちから文脈を読み取り、そこに意味を見出す能力を磨こうとする。車両の形式から分類、歴史、沿線の地理、営業、経営面……と様々な情報を集めて、自分自身の●●鉄道に対する世界観を作り上げていく。
 オリジナルの世界観を構築する作業自体が、鉄道趣味の活動そのものへと繋がっていくからだ。
 となると、より素晴らしい世界観を構築するにはもっと知識を得なければ、ということになる。自分の好きなことをもっと知りたい、もっと情報を得たいと努力するのは、知識が世界観構築のために必要だと分かっているからだ*2

鉄道好きがこだわってきた知識が意味をなさなくなった時代

 ただ、そうした知識偏重主義的な物言いがときに他者から批判されることもある。
 知識自慢のマニアがいやだ、とは70年代からたびたびライト層から指摘されている。実際、「あれは●●なんだよ」と教えてもらえるのは嬉しいのだけど、「おまえは●●も知らないのか」といった物言いをされると勘弁してよ、という気にはなる。
 たかが趣味の話なのに、なぜ知識自慢になるのか。それは、

  • 自分が研鑽してきた鉄道に対する世界観が、あなたより素晴らしい

ということを確認したいからなんだろう。
 自分の世界観が素晴らしいと思うからこそ、他者との些細な違いが気になってしまう。だから「おまえは●●も知らないのか」という発言に繋がってしまう。
 これは鉄道趣味に限った話ではない。他の趣味でもスポーツや音楽鑑賞の世界でも、そして仕事や家庭のルールなんかでも世界観の優劣を巡るせめぎ合いというのは存在している。そして、こだわりの濃淡、考え方の違いで衝突することが間々ある。
 そして、最近、状況は変わってきている。
 鉄道趣味の深化と多様化が進んで関連する書籍が多数出てきたことで、博物学的な分類方法や歴史的視座、最新のニュースといったものは、広く鉄道趣味の人たちに知られるようになった。
 さらに、この十年、鉄道に関する知識や情報がインターネットで広く平等に共有されるに至り、「おれの方が●●をよく知っている」という自負は無意味になってしまった。本で調べるか、検索エンジンをかけるかすれば簡単に分かることが増えたので、知識=世界観の深さという単純な話ではなくなったからだ。リアルな体験がなくとも知識と思い入れで補うことは可能だ。20歳の大学生が40、60歳の人たち以上の知識を持つこともありうる。
 2000年以降、ホームページや掲示板、ブログなどで、市井の趣味人でも誰もが自己表現が可能になったことも大きかったと思う。逆に言うと、ここ7、8年の鉄道本の多くが既視感ありありの内容になってしまったのも同じ理由だ。あらゆるジャンルが掘り起こされてしまった後、過去の情報を切り貼りしただけでは独自性が出せるはずもない。誰でもイメージできるような流行の物は誰もが追随できる。
 以前、「文学界」2006年5月号に「東西鉄道書事情」と言う記事があった。書泉グランデ旭屋書店本店の鉄道書事情を紹介したものだが、

  • いかに趣味性が高くとも、鉄道書の場合、一部に極めて熱心なファンを抱えるとはいえ、全体のパイは決して大きくないこともあり、さすがに好調とは言えないようだ
  • 基本的に古いもの、ノスタルジックなものへの嗜好が強いため、確実に売れる本を作るためのネタが枯渇していく一方であり、なかなか新たに生み出せないことも苦しい材料

という分析は的確だなあと感じたことがある。

文学界 2006年 05月号 [雑誌]

文学界 2006年 05月号 [雑誌]

 となると、鉄道に関する情報を整理して見せ方の工夫をする技術が問われるようになっている。知識量の多い少ないより、それをどのように集めて、どうやってまとめて、どのようにネタとして昇華させていくのか。独自の視点と語り口が大切になる。そういった意味では、原の語り口も貴重な存在だ。「秘境駅」とか「鉄道MAD」とか萌えとの融合とかも一つの方向性なのだろう。知識の蓄積よりも自分の感性を大事にしたいという傾向は確実に強くなっている。また、全体像をとらえた上で資料性のある論考をきちんとまとめていくという考え方もある。本が売れなくなった時代でも、活動する上でヒントとなる資料集やムック本は一定の人気を保っている。
 趣味の人たちが自分の世界観を紡ぐためにはなにが必要なのか。受け手も送り手もそれを意識して行動することが大切になってくる。
 もっとも、それぞれが持つ世界観(鉄道イメージ)は、あくまでも個人的な視点でしかない。鉄道会社の中の人の見方、あるいは他の人の世界観と対立することもある。


 と、まで書いていて先が長くなりそうなので、今日はこれで終了。後編はまた思いついたときに書こうと思いますが、それはまた別の話。
(続く)<参考>
鉄道マニアが求める"世界観"。そして物語の不在 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

*1:もちろん、90年代以降、二次創作や萌え趣味などメタ的な消費が存在するというのも認識されるようになった。物語を消費するという行為の先になにが起きているのか。「動物化するポストモダン」なのかどうかは知らないが、今日的な課題の一つとなっている

*2:うんちくの蓄積が世界観と趣味活動に繋がるという点では、ある意味、メカミリタリー関係の趣味と共通する傾向がある。鉄道員自衛隊員になれば当事者となることも可能だけど、そうなると距離感が微妙になってしまうというのも同じか