クロアチアと世界遺産とネコ。

katamachi2010-07-15

 十日間ほど東欧へ渡航していました。メインの訪問先はクロアチア。そして周辺国のボスニアヘルツェゴビナモンテネグロ、そしてイタリア(わずかにバチカン)です。
 宮崎駿好きとしては「紅の豚」のモデルとなったアドリア海に面したドブロブニク(以下、ドブロク)を中心とした白い壁とオレンジの屋根の街並、そして天高く広がる青い空、透き通るように広がる碧い海が魅力的だった。
 すでにクロアチア自体には1998年に訪れたとは「コソボ紛争の始まった1998年。クロアチアから新ユーゴへ旅したときのこと - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いたんだけど、ちようどコソボ紛争が勃発したときで、紛争地域での衝突がまだ残るボスニアセルビアに入国できる雰囲気ではなかった。最終的にブダペストから新ユーゴのベオグラードを経由し、マケドニアからギリシアアテネへと脱出。帰国後、そのルートの鉄道が破壊活動で運休したと聞いて驚かされたものである。
 あれから12年。今度は真夏にアドリア海の街並を訪れることにした。

  • 7月2日

京都2015→2140着関西空港2315発→エミレーツ航空

  • 7月3日

→445着ドバイ(ターミナル3)925発→1345着ローマ1800発→クロアチア航空→1925着ドブロブニク
 エミレーツ航空クロアチア航空を乗り継いでドブロクに到着。ここは12年ぶりの訪問です。ホテルは旧市街近くの宿で繁華街へのアクセス抜群でした。ホテルにcheck inしたら20時過ぎですが、まだ空はうっすらと白いんです。夏とはいえヨーロッパは夜が遅いなあ。
 9時を過ぎても狭い旧市街に溢れている人々の数に改めて驚愕。旧市街の広場でオープン席を広げているレストランで席を確保し、シーフードリゾットやカキで晩飯しながらワールドカップの準々決勝パラグアイvsスペイン戦を観戦。後半最後のゴールで劇的な結末を迎えると、テレビを観戦している観光客たちの歓声が町中から沸き上がります。やがてスペイン人の団体さんが「おーれ、おーれおれ、えすぱによーる」と高らかに歌いながら国旗を振り回し、市街地を練り歩き始めます。凄いわ、この人ら……
 と、12時を過ぎても、ドブロクの街は旅行者たちのハイテンションな歓喜の声がいつまでも響いていました。

  • 7月4日

終日 ドブロブニク市内観光
 この日はただただ世界遺産の街、ドブロクの旧市街を歩くことに努めました。
 気温が高くならない朝早くからピレ門を潜り、旧市街へ。ツアー客が来ていないからまだ人の数も少ない。
 さっそく城塞都市を囲むようにして延びていく城壁と要塞2kmをひたすら歩いてみました。


 すると、城壁の西端にある要塞から白いネコが目の前に現れました。

 ひょこひょこと歩いていくのについて行きます。

 ころころと歩きながら、城壁に沿うようにして広がる建物の中に消えていきました。そのどこからご主人様でもいるのでしょうか。

 この後も、アドリア海と市街地の境界線に続く城壁を進んでいきます。港には近在の島々へ行く観光船が発着しています。遠くには豪華船が停泊し、そこと港を結ぶ上陸船が5分毎に頻発運転されています。到着のたびに百人以上の観光客が上陸してくる。


 午後もオレンジ屋根と白い壁の家々を縫うようにして続く街並をひたすら歩きました。
 12年前と違って観光色が濃くなり過ぎた世界遺産ですが、ここにも1000人くらいの住民が住んでいるそうです。

 そんな家々を縫うようにして続く路地を歩いていると、

坂の上の家にネコがたむろしていました。
 近くの家の窓を見ると、ネコが顔を出しています。

 ここの家に飼われている半野良なのかな。
 次は小さな子猫です。


 観光客が行き交うエリアでは見かけなかったんだけど、裏道にはいるんだなあ。
 さらに歩いていくと、裏広場のベンチでネコがのんびり寝そべっていました。

 植木鉢を見つめると、丸くなっているネコが。どうもシエスタ中のようです。

 だらだらとカフェで過ごしながら夜もレストランで。狭い路地にテーブルが並べられ、多数の観光客がシーフードを食いまくっています。
 ムール貝や魚の盛り合わせを食べていると、足下に子猫が2匹。じーっと僕の瞳を見つめています。
 もう皆まで言うな。スズキの頭の部分を落としてやると、うまそうに味わっています。いやあ、これだけ魚が豊かだとネコもたくさんいるよなあ。

  • 7月5日

ドブロク8:00→11:40ボスニアヘルツェゴビナモスタル
午後  モスタル観光
 バスでクロアチアの東側にあるボスニアヘルツェゴビナへ。1992年に、セルビアクロアチアムスリムの3勢力によって国中が三つどもえの内戦状態になったのは記憶に新しい。今は落ち着いてはいるモノの、それぞれの民族は居住地を明確に分けて住んでいるそうです。
 予約した宿はモスタルの東側のムスリム人街。Bosnian National Monument Muslibegovic House(ムスリベゴヴッツァ・クチャ)というオスマントルコ時代の邸宅を改装して利用しているホテルでした。
 ここの最大の名所は、オスマン時代にかけられたアーチ橋の"スターリモスト"。世界遺産にも登録されています。旧市街の街並みを跨ぐようにして架けられた石造りの橋が青い空に映えています。ドブロクなどクロアチアのリゾート地からの日帰り客で周辺は埋め尽くされていました。


 ただ、この橋。先のボスニア内戦で、サラエボのオリンピックスタジアム跡のお墓と共に、シンボル的存在になっていたのを覚えているでしょうか。ここの川を挟んで西側がクロアチア人、東側がムスリム人と居住地が分かれていて、それがゆえに両勢力が橋周辺のエリアの陣取り争いを始めてしまった。
 あれから17年、街並みはかなり整備されていましたが、古くからの建物やアパートの壁に銃弾の跡があちこち残っています。市街地にある公園は半分くらいが霊園に転用されていて、そこに建てられた墓碑を見ると、「19●●〜1992」とかいう文字ばかり。橋の東側に住むムスリム人エリア、西側に住むクロアチア人エリア。今ではほとんど互いの交流はなく、橋を行き来するのは観光客と関係者ばかり。

 夕方6時と言ってもまだまだ空が明るし街へ出てみると、スターリモスト周辺も落ち着いた雰囲気に様変わりしていました。日帰りの観光客たちがみんなクロアチアに帰ってしまったからでしょう。
 お土産物売場を冷やかしていると、通りすがりの若い地元のあんちゃんが声をかけてきました。「日本とオランダの試合、見たよ。ホンダ、凄かったよね。ホンダ。今はどこのチームにいるの?」と。ナカタの名前は2000年には世界各国に広まっていましたけど、ホンダも数年後はそうなっていくのかな。
 今晩は橋の側にあるレストランで食事を取ります。

 ボスニア地方の郷土料理。煮込み系のボスニアの料理を口にしていると、トルコ料理とかの味付けを思いだします。うまいはこれ。クロアチアがイタリア系料理の影響を受けているのと好対照。
 で、つまみに頼んだマス料理に手を付けると……

 また羨ましそうな顔をしているネコが。
 仕方ない。また魚の頭をやるんだけど、今日は小さいんだよなあ。すぐ食べてしまい、「もっとくれよ」という顔で僕を見続けます。勘弁してくれ。

  • 7月6日

朝   モスタル10:00→14:30スプリット
午後  スプリット観光
 この日はモスタルからクロアチアを結ぶ国際列車に乗りたかったのだけど、駅の改札口へ行っても、駅員のおばちゃんがつれない態度。どうも今日は運休ということらしい。バスが何往復もしているしそっちへ乗れよ、ということなのか。旧ユーゴスラビア時代はサラエボベオグラードからアドリア海へ結ぶ重要幹線だったんだけど、そこに国境ができたことで物流が寸断されてしまったんだろう。
 代わりに乗ったバス会社はかなりいい加減なところだった。モスタルから1時間ほど離れた街に着くと、突然、僕らを含めた客20人に降りるように命令し、そのままどこかへ行ってしまった。なにかトラブルがあったようだが、英語を話せる地元民に聞いても理由はさっぱり分からない。「クレイジーカンパニーめ」というだけ。1時間ほどしてようやく返ってきたが詫びもなにもない。
 結局、1時間半ほど遅延して、16時前にクロアチア南部最大の都市、スプリットに到着。
 ここの旧市街、そのベースは4世紀、ローマ帝国ディオクレティアヌス帝が建てた宮殿なんですよね。その後、ベネチア共和国→オーストリア帝国......と、時を経ると共に建物が積み重ねられていく。かくして、周囲1.5kmという狭いエリアに、ローマとゴシックとビザンチンと様々な建築形式が入り交じった独特の雰囲気の街並みができあがった。

 もちろんここも世界遺産。大量に観光客がたむろしています。彼らが行き交うメインストリートを避け、できるだけ人のいないような路地を歩いていきます。
 すると、ああ。

 ここにもネコです。

 眠そうな顔をしているんだけど、僕を見つけるとなぜだかついてきます。おいおい、今は何も食べるモノがないんだけど……すまん。
 夜はまたシーフード。ここのレストランが一番うまかったなあ。

  • 7月7日

スプリット10:00→1045トロギール→市内観光→トロギール1220→1312スプリットの近郊バスターミナル→スプリット旧市街散策→スプリット15:00→19:45ドブロブニク着 市内バスでラパド地区
 午前中はスプリット近くのトロギール。河口の小さな島にレトロな建物が建ち並びます。ここも世界遺産の一つ。

 午後にスプリットからバスでドブロクに戻ります。
 今日は郊外の宿。ちょっと休憩してから夜のドブロク市街地へ。海岸縁のレストランで夕食です。
 今日はワールドカップ準決勝。スナイデル、ロッペンとゴールを入れて、もうオランダが勝ったと誰もが思った後のウルグアイの猛攻が凄かった。基本、ここは東欧だし観光客もヨーロッパ人ばかりなんでオランダびいきが多いんだけど、あの瞬間、「凄いぜ、ウルグアイ!」と観客の気持ちが一変したのを実感した。まあ、もう時間はなかったんだけどね。

  • 7月8日

午前 ドブロブニク10:30→1250コトル1440→1705ドブロブニク
 今日は、隣国モンテネグロ世界遺産コトルへ日帰りで行きます。
 モンテネグロも旧ユーゴの共和国の一つだったんですが、人口60万人程度の小国で経済的にも下位にあったため、ユーゴ内戦のときも最後までセルビアと共同歩調をとり、終戦後も新・ユーゴスラビア国→セルビア・モンテネグロ国の構成メンバーとなりました。コソボ紛争後は方針転換し2006年に独立しますが、EUの軍事的経済的政治的バックアップがなければんなり不安定な立場であるのも確か。
 なんでクロアチアと隣接しているにもかかわらず、経済面でも物流面でも交流はあまり活発ではありません。ドブロクと50kmほどしか離れていないんだけど、バスは1日2往復のみ。しかも国境通過で大渋滞していて1時間以上待たされた上、バスのクーラーの効き目が悪くて熱中症になりかけになりました。
 かくしてコトル着は、定刻より50分遅れ。滞在時間はわずか1時間。なんで駆け足で旧市街を歩き回りました。ちょっと慌ただしかったなあ。
 腹が減ったんで街のキオスクでピザを食べていると.....

 またネコかよ。でも、あんまりピザには関心がないようです。魚の方がイイのかな。
 夕方にドブロクへ戻り、また旧市街のレストランへ。今日は準決勝2試合目ドイツとスペイン。終盤、スペインの見事なゴールが決まると、スペイン人観光客グループからいっせいに歓声が上がります。
 そのままタイムアップすると、旧市街は歓喜のスペイン人旅行者で埋め尽くされます。国旗を振り回し、「おーれおれおれおれー、えすぱによーる、えすぱによーる」と幸せそうに叫び続ける団体さんたちが道々を練り歩きます。「こんぐっちゅれーしょん」と僕が声をかけると、おつちゃんたちがハイタッチしてくるし、ボインのお姉さんが抱きついてきました。隣の席のカップルは醒めた顔をしてワインを飲んでます。彼らはドイツ人なのかな。
 そんな状態が2時間ほど続いていたかなあ。こんな馬鹿騒ぎ、大好きです。

  • 7月9日

午前 ドブロク観光
ドブロブニク1300発→(ザグレブ経由)→1705ローマ着

  • 7月10日

ローマ1515発→2315ドバイ着

  • 7月11日

ドバイ310発→1720着関西空港
 最後に再びドブロクの旧市街へ。

 旅の終わりを迎えた僕たちに再びネコが迎えてくれました。


 そして、11時。タイムアップ。タクシーで空港へと向かいます

 12年ぶりのドブロク。最初は正直、あまりにも観光客が多すぎて、ああ、しまったなあ、こんなツーリスティックな街じゃなかったのに、オレにはあわないかな……と思ったんです。でも、ひたすら青い空が続くアドリア海の街並みの魅力はそんな先入観を覆してくれました。人混みから少し離れると、日常的な風景がたくさん待っているんですよね。
 そして、海沿いの国だからこそシーフードを毎日のように味わえました。
 たくさんのネコが僕らを迎えてくれたのも、そうした豊かな海の幸があるからなんでしょう。ここまで猫がのんびりと集う街って、海外では珍しいなあ。モロッコエッサウィラ以来かな。
 ただ、鉄道マニア的にいうと計算外れの旅でした。12年前には運転されていなかったボスニアヘルツェゴビナクロアチアを結ぶ国際列車に乗ることを最大のテーマとしてヨーロッパの辺境に来たんだけど、見事に空振りでした。鉄道に乗れたのもローマと空港を結ぶアクセス列車だけ。昨年行ったエチオピアと言い、5年前に行ったザンビアといい、最近、現地に行っても旅客列車が運休している国が多いんだよな……とは思うのですが、それはまた別の話。