非日常で包まれた街が日常に帰るとき。
2週間経っても事態は収拾する気配すらない。そんな前ではあらゆる言葉が無に帰していく。
2011.3.21の朝日新聞に東北の自治体の首長2人がコメントを寄せている。岩手県の陸前高田市長と南三陸町長だ。
戸羽太陸前高田市長は、2月の市長選で当選したばかりだったという。過去のニュースを見ると、中選挙区時代に陸前高田を選挙区とした小沢一郎系前県議との接戦に勝ち残ってきたことが分かる。生々しい政治的やりとりがそこにはあったのかもしれない。
それから1ヶ月、彼は、多くの市民と街と、そして自身の妻とを失いながら、前代未聞の非常時に取り組んできたことが分かる。
記者に語る彼の言葉は長文だが、その率直さに興味を抱いた。
陸前高田市長と南三陸町長が語る誠実な迷い
陸前高田市で培ってきた防災組織について語る。年配の人にもお互い声かけして避難するという決まり事があったようだ。それをやっているうちに多くの命が失われたのかもしれない。
でも、それが悪いんじゃない。自分の命が大事だからと若い人たちが勝手に逃げて、高齢者を置き去りにしていいのかと言えば、それもまた違う。何が正しいのかは誰にもわからないんです
陸前高田市には、高さ6メートルの防潮堤などがあります。今回の津波は、その上を越えました。では、防潮堤が10メートル以上あればいいのかと言えば、刑務所の塀じゃないんですから、景観にも配慮しなければならない。
佐藤仁南三陸町長もそうだ。
宮城県沖地震が起きたときに、起きる津波の高さの想定は6.5メートルだったんですよ。申し訳ないけど、これほどまでの大災害が来るなんてことは、一人として思っていなかった
その言葉は重い。
戸羽陸前高田市長は政府への要望として、
- ガソリンと灯油と物資を届けて欲しい
- 起債や税の優遇処置
などと語るが、それでなんとかなるという簡単な話ではないのは百も承知だろう。それでも混乱する中でなんとか中央に声を届けたいという意志は感じる。
いや、だからこそ誠実だとも言える。
被害を受けた海岸沿いの平地は再生できるのか
数ヶ月後に落ち着いた後、戸羽陸前高田市長と市職員、そして住民たちは、陸前高田市の街並みの復興に取り組まねばならない。
でも、全てが無となった街で何ができるか。
市長は
- 広域合併も視野に入れなければならない
とする。お隣で同じく被害を受けた大船渡市との合併構想はあったが、大船渡4万人、陸前高田2万人ではどちらが主軸となるかは自明なところ。吸収される側となろう陸前高田側では非常に評判が悪いようだが、それすらあえて言及している。選挙に負けることになっても「市民が一番幸せに近づける選択をしなければいけない」とまで言い切る*1。
そして将来のまちづくり。
これまで、陸前高田に限らず、海に面する街は海岸縁の港や市役所、鉄道駅、商店街を基軸に広がっていった。狭い平野に家並みが密集するのは日常の生活の利便性ゆえだ。山がちなリアス式海岸であるがゆえに家が建てられる平地は極めて少ないからだ。
人々の多くが海に近いところに住んでいたからこそ、高い防潮堤が築かれた。なのに、効果がなかった。6メートルの堤防が10メートルにしても20メートルにしても問題は解決できない。堤防にカネをかける以外に方法論がないのだろうか。
今回、市街地の多くが消えて中で、戸羽市長は、
あれだけ怖い思いをして、家族を亡くした人がいる。そういう人たちが、何がなんでもこの地域に住みたいかといえば、そういう心境ではないかもしれない(中略)
いま、低い土地に新しく家を建てようと思う人はまずいないでしょう。10年、15年たって、悲しみが心の中から薄れていったときには、そういう人もでてくるのかもしれない。私自身は子どもを連れて元あったところに再び家を建てようとは思わない。高いところに住めば津波の心配はないわけですから、みんなもそういう方向で考えるんじゃないでしょうか。
と語る。「元あったところに再び家を建てようとは思わない」という言葉は重い。
佐藤仁南三陸町長も
町の再生は大変厳しい。(中略)あの津波に流された更地をどうするのか。もう一度道路を造り、区画整理をして建物を建てたとしても、2、3人しか帰ってこなければ、町としての機能は成り立ちません。(中略)
なお、ここに住むかどうかという心の問題は、私たちでどうしようもないところがあります
と語る。
- 被害を受けた平地は放棄
- 全員で高台に移住
という単純な話ではない。これまでの街は無人でおいておくのか。それでも住みたいという人も少なからずいるだろう。難しい判断が続くに違いない*2
施策が無に帰した現実に専門家すら言葉を失う
テレビや新聞、雑誌を見ていると、様々な視点を語る人たちがいる。専門家ゆえに非日常的な状況に興奮しているのかもしれない。
でも、この段階で具体的な策を次々と主張できる人こそ、僕は不思議に思う。液晶テレビの向こうに現実を置き去りにしている限り、その言葉は現地に届かない。
当事者となった災害対策の専門家もそうなんだろう。いくつかのテレビ局が学者たちを現地に連れて行き、コメントを求めていた。彼らの多くは現実の前に呆然とし、言葉少なに自らの限界を語るだけだった。
高さ6メートルの防潮堤でなんとかなるはず。ということで、堤防を築き、防災マップを描き、市民に対策を唱えてきた。大方の災害を防ぐことができたはずだ。もちろん彼らもそれが完璧だと思ってプランニングしたわけではない。でも、人ができることに限界がある。
そうした施策が全て無に帰した。彼らもまた無力感に苛まれているに違いない。
僕が興味ある鉄道に関しても、そうだ。
内陸の東北新幹線や東北本線はなんとかなりそう、という記事は見かけるようになった。
でも、海岸を走る常磐線、仙石線、気仙沼線、大船渡線、山田線、三陸鉄道線……どうなるんだろうか。鉄道の再開以前の状況が、あと数ヶ月、数年続くことは容易に想像できる。
そんな中、東北新幹線について、こんな記事があった。
東日本大震災では鉄道、港湾、道路など主要な交通インフラに大きな被害が発生し、現在も復旧作業が続いている(中略)設計上の想定を超える今回の大地震と巨大津波の発生で、あらゆるインフラ技術が根幹からの見直しを迫られるのは必至だ。ただ政府がインフラ輸出を成長戦略に掲げる中、高速走行中の列車が脱線しなかった新幹線はかろうじて「安全神話」の面目を保った。
東北新幹線「安全神話」は健在 想定超えた地震でも脱線防ぐSankeiBiz 、2011.3.22
残念ながら、今回は「安全神話」が通じたから重大事故が起きなかったのではない。単に技術と経験の積み重ねがあり、そして運に恵まれただけだ。
マスコミは防波堤でも原発でも何でもそうだけど、勝手な「安全神話」を作り上げては、それが「裏切られた」とか言って騒ぐ。当事者や技術者ほど「安全神話」なんて無責任な言葉を発しない。自分たちの想定が現実の前に無力であったことを噛みしめるだけだ。無責任な批判より、真摯な態度を保つ研究者がいることに、ある意味救われた気もする。
全てが無に帰した街から何が産み出されるのか
市長や市役所、市民、そして関係者たちの全てが現実の前に立ちすくむ。
多くの市民が住んでいた港近くの平地を捨てるのか、否か。新たな住宅地域は山あいを切り崩して造成地を大量に整備しないといけないのか。それは環境的に、水資源維持のために可能なのか。港と町が離れることでの多大な問題が降りかかってくる。それでも平地に住みたい人は残る。国や自治体はそれを強制できるのか。
それまでの段階で集団移住の可能性も指摘されている。それも共同体破壊しかねない苦渋の判断だったのだろう。
永年、地方部の自治体は公共事業に依存するしかなかったが、ゼロ年代になってそれが抑制されたからこそ自治体経営以前の縮小均衡を続けることになった。それが一層の衰退を地域経済にもたらしたが、他に生きる道はなかったのも事実である。最悪が来る前から街には可能性がなかった。
役所も専門家もどうすればいいのか分からない。
ちょっとしたことを考えるだけで、将来は絶望しか見えてこない。
だが……その無の中から何が再生してくる。
これから様々な議論が交わされるのだろう。
堤防は完璧ではないのだし他の可能性はないか。港町で高台に住むのは不便だが移動をスムーズにする手段は何かないのか。クルマで逃げられるのも道の容量的に限界があるのは分かった。その対策はなにか。さすがに鉄道を復活する余裕はないとの判断があるかもしれない。
多くの時間と言葉を要するのだろう。そもそも災厄が落ち着いた後、どれだけの市民が帰ってくるのだろうか。
でも、市長は諦めていない。
もともと市民の意見を聴いて街づくりをやりたいと思っていましたが、これからは本当に市民の声を聴いていかないといけない。
どうすればいいのか、政府も専門家も誰も答を持ち合わせていない。事実上、ゼロからのまちづくりが必要になる。阪神大震災の時のような防災的に素晴らしい街並みができても人が集まる保証はない。求める全ては復旧できないかもしれない。だからこそ、市民の声が必要になるのだ。そこに新しい市民と自治体の関係が構築されるのかもしれない。
あれから2週間、最近、僕は毎日のように東北地方の地図を見つめている。
いつの日か、彼らは街を再び構築することになる。そのときは、ぜひ、気仙沼に、陸前高田に、南陸前に、釜石に、大槌に、宮古に訪れてみたい。無から街を作り出していく知恵と情熱がそこには溢れているに違いない。それをぜひ見つけていきたいと考えている。