3dayチケットで叡山電鉄と蹴上のインクラインへ。

 スルッとKANSAIの「3dayチケット」で洛北に行ってきました。6月に鞍馬ケーブル→鞍馬寺貴船の川床料理→貴船神社……というベタベタなルートで回ったとき以来だから半年ぶりです。
 目的は叡山電鉄京福嵐山線の全駅下車。共に6駅ずつ未降駅がありました。ちょうど関西ローカルのテレビニュースでは、京都の山々にはまだ紅葉が残っている……という話だったので、鞍馬線市原―二ノ瀬駅間の「紅葉のトンネル」に期待して行ったのです。
 ただ、すでに葉っぱはほとんど落ちてしまっていて、雰囲気はイマイチ。「紅葉のトンネル」というよりは「紅葉吹雪」って感じでした。叡山の沿線はどこもいまいちでしたね。もう一週間早く来れば良かった。天気も微妙だったし、鉄道趣味的にはあまり収穫はありませんでした。
 そこで、午後は蹴上駅(京都市地下鉄東西線)へ向かって、南禅寺、そして琵琶湖疎水のインクラインの痕跡を見てきました。
 琵琶湖疎水は、利水と発電を目的として明治期に大津と京都(琵琶湖と鴨川→淀川)の間に建設されたものです。東京への遷都後、急激に落ち込んだ京都経済を復興させるきっかけとなった事業ということもあり、地元のみならず、小学校の社会科の教科書にも載っているぐらい有名な産業遺産です。今でも京都市水道局や関西電力が当時の施設を現役として利用しているというのだから、それもまた別の意味で凄かったりする。
 さて、この疎水沿いには、鉄道マニアにとってなかなか興味深い産業遺産があります。南禅寺〜蹴上間583mに敷設された4本のレール、そしてインクライン用の台車です。このインクラインは、大津と京都市街との間で最大の難所となっていた蹴上付近の段差(高低差36m)をクリアーすべく設置されたもので、疎水を行きかう船を台車の上に載せてモーターで引っ張りあげていました。その痕跡が今でも残っているのです。レールは明治当時のまま、その上で保存されている台車も昭和初期に新製されたもののようです。
 明治時代は大津から京都市内へ向かう人々もこのルートの川船(渡航船と呼ばれていた)を使っており、最盛期には年間20万人以上の利用者があったようです。ところが、1912年に京津電気鉄道(後の京阪京津線)が開通すると旅客利用は激減し、後は遊覧船の利用がちらほらあっただけ(1936年頃まで?)。また、貨物船によるインクラインの利用も1948年頃が最後だった。朽ち果てていた施設が再整備されたのはその30年後のことです。
 疎水の船溜まり跡に沈む4条のレール。その上で保存されているインクライン。それを覆うようにして彩られた木々。いやはやなかなかイイ雰囲気です。ここは地味すぎるスポットで、桜のときを除けば余所者が訪れることもほとんどない。なのに、今日はインクライン廃線跡を歩いている人がかなり多かった。12月にもなってこの観光客の多さはいったい何なんでしょうか。さすが京都。
 帰りは、京福嵐山線阪急嵐山線経由で帰りました。渡月橋で「月と橋」というベタな写真を撮ろうと悪戦苦闘しているベルギー人に会ったのですが、それはまた別の話。