西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その1)
拙著「鉄道未成線を歩く 私鉄編」には全国各地で企画された未成線をいろいろ紹介しており、とりわけ巻末のリストは鉄道史好きの方や架空鉄道好きの方にはかなり喜ばれたそうです。特に問い合わせがあったのは、p.171の「表6 東京都心部における私鉄新線の免許申請」という表でした。感のいい方は、「あっ、これって東京都交通局の資料を基にしているね」と分かっていただけたでしょう。このデータは東急や東武の社史にも使われています。
ただ、ちょっと濃い方なら、西武と京王の項目に目がいったはずです。これまで公表されていない情報だったと思います。だって、私が運輸省の地下倉庫で西武関係の簿冊を調べ上げた結果、分かったことですから。西武って社史を刊行していないから、意外と基礎的な歴史データも蓄積されていないんですね。
今回は、終戦直後、西武鉄道が池袋線と新宿線を連絡するために企画した鉄道線について紹介してみましょう。
池袋線と村山線とを連絡する路線の免許申請
現在の西武池袋線はかつての武蔵野鉄道、新宿線は(旧)西武鉄道によって整備されてきたことは有名な話。東京北西部で隣接していた両社は永年競合関係にあったが、戦時中の統制経済下に運輸省主導で合併することになり、45年9月、西武農業鉄道が誕生する。これが現在の西武鉄道となる。
その後、西武は、練馬区や武蔵野市界隈で次々と新線構想を企画する。村山線(新宿線)と池袋線をショートカットする路線を敷設しようとしたのだ。
武蔵野鉄道は、すでに、45年2月、沼袋〜東長崎間2.5kmの申請を行っている。同社は、この直後に旧西武鉄道(現・新宿線)を合併することになっており、それに備えての行動だった。当時も今も、高田馬場駅の構造上、村山線と山手貨物線を直通する貨物列車を運行することができない。なので、村山線発の貨物列車を池袋駅に乗り入れさせることでそれを代替させようとしたのだ。池袋・東長崎・所沢・東村山を循環する環状鉄道構想もあった。
- 45年2月 西武 沼袋〜東長崎間 2・5km
西武に対抗しようとする京王帝都の動き
ところが、この申請を取り下げた49年8月頃から状況はおかしくなる。きっかけとなったのは、「大東急」から独立した京王帝都電鉄が、その直後の48年12月に久我山〜田無間の田無延長線の免許を申請したことにあった。帝都線を青梅街道沿いに延伸し、33年の帝都電鉄開業以前からあったプランを再現しようとしたわけだ。49年12月には吉祥寺〜田無〜東久留米間9.1kmを追申請している。
- 48年12月 京王 久我山〜田無
- 49年12月 京王 吉祥寺〜田無〜東久留米 9・1km
だが、田無・東久留米地区は西武鉄道の商圏である。もちろん西武は京王田無線に反発する。
- 49年10月 西武 武蔵関〜武蔵境 4・8km
- 50年1月 西武 鷺ノ宮〜富士見台 3・0km
- 50年9月 西武 多磨墓地前〜杉並車庫前 13・3km
- 50年11月 西武 田無町〜関前橋 4・6km
このように49年から翌年にかけて4路線の免許申請を次々と行う。京王も、54年から順次、富士見ヶ丘〜新宿間、富士見ヶ丘〜西国立間、富士見ヶ丘〜三鷹間と対抗して免許申請を行う。三鷹市や府中市は京王帝都電鉄誘致連絡協議会を結成しようという動きを見せていた<つづく> 。
西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その1)
西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その2)