「廃止」と聞くと血が騒ぐ鉄道マニアの気持ちを考える

katamachi2008-02-18

寝台急行「銀河」(東京−大阪)が3月14日で姿を消す。最終日の予約受け付けは開始30秒で終了。ラストランまで1カ月を切り、東京駅の発着ホームには熱心なファンが連日押し寄せている。
遅くて早い魅力…「銀河」廃止間近、“鉄”の列産経新聞、08/02/17

 3月のダイヤ改正まで1ヶ月を切り、ブルートレインを紹介する記事が増えてきた。特に今回、大手マスコミが集中する東京と大阪絡みの寝台列車「銀河」、「あかつき」・「なは」が廃止されるというので注目度は例年より高い。朝日は昨日も記事にしていたし、ここでは「あかつき」のルポをしている。毎日や読売も同様だ。
 「懐かしい」「惜しい」という利用者の声を紹介しながら、「淘汰(とうた)されるのは時代の流れか」という定型句で締めるというのが1つのパターン。今頃、感傷だけで語っても遅すぎるわなあとも思うけど、かくいう自分も同じことを「寝台特急が生き残る方法を淡々と考えてみる - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」でやっている。正直、それ以上にコメントできないのが辛いところ。一方、昨日紹介した島原鉄道、あるいは関西の隅で走っている三木鉄道が全国媒体で取り上げられることはあまりない。鹿島鉄道くりはら田園鉄道神岡鉄道名鉄600Vもそうだった。それを伝えて全国の人が面白がれる切り口がないからなんだろうけど、それもまた寂しい限り。
 まあ、なにかの消滅をマスコミが報じ、それに煽られた一市民が「今度●▼が消える。一度、行っておかねば!」と現場に押しかけて大混乱……というのは、百貨店とか遊園地とか色んな場面で見られる現象である。なにも鉄道マニアと鉄道現場に限った話ではない。
 さて、昨秋の朝日のスクープ記事以来、ネットだけでなく大手マスコミも「ブルトレ廃止フィーバー」を取り上げてきたお陰で、鉄道マニアさんだけでなくいろんな層が注目し始めた。その弊害もいろいろ出ているようだ。今日は、鉄道マニアがそうした「廃止案件」に興味を抱く気持ちの背景について考えてみたい(なお、マナー向上すべきだ云々の話は今回割愛させてもらう)。

"廃止"というイベントを消費してきた鉄道マニアたち

 JR西日本によると、14日午前10時に始まったラストランの予約受け付けはわずか30秒で完売。残り1カ月を切り週末はすでにほぼ満席の状態という。最後の盛況ぶりに「『葬式走』ってやつは好きじゃない。なくなることが決まる前に乗ってくれなきゃ…」と本音を漏らす鉄道マンも。
 また、廃止が決まると必ずといっていいほど装備品を盗む不届きな輩が出没するという。「銀河」も2号車の行き先表示器が被害に遭い、粗末な紙製の字幕で代用していた。準備ができ次第、正規の字幕に交換されるが、ラストランが近づく中、惨めな姿での運行を余儀なくされた。一部マニアの“暴走”とみられるが、犯罪のうえに車両への冒涜(ぼうとく)でもあり、絶対に許されない行為だ

 こういう話を記事にするのは珍しい*1。部品コレクターの"一部"が廃止前になるとあちこちで盗難を繰り返すというのは、以前から頻発しており、特に珍しい話というわけでもなかった。先日、「あかつき」に乗ったら、寝台車の扉に付いている「禁煙席」と書かれた紙製の札にガムテープが付けられていた。盗難防止のためなんだろう。本人は部品を自分のモノにすることで、「この列車はオレのもの」という気分になるのだろうが、はた迷惑な話である。
 こういうとき、「おれはマニアじゃないんだ、あいつらと一緒にするな」という反発が昔から定番のようにあった。最近だと、「葬式鉄」や「葬式厨」なんて他者を揶揄する言葉もあるらしい。
 ただ、「鉄道マニア」*2と言っても色んなタイプがあるわけで、十把一絡げに語ることはできない。
 そもそも60年代のSLブームから40年余り、鉄道趣味のベースにあったのは旧客やローカル線、国鉄型車両など消えゆく物に対する愛着だった。
 趣味の根底に「在りし日の想い出へのノスタルジー」というものを抱えている限り、そうした懐古趣味の流れを否定することもできない。それゆえ、マニアたちは「廃止」というイベントを消費し続けた。美人は三日で厭きるとの言葉はあるけど、新車とか新線なんてのもそういうものだ。それより、自分が子どもの日に見た、あるいは過去に見たかった風景の方を想い出に刻み込みたい。そんな感情は、鉄道マニアならず何かを趣味とする者の根底に共通する心象風景だと思う。
 ただ、どんなマニアにも、

  • 消えゆく物に対する"憧れ"
  • 消えゆく物を消費することへの"やましさ"

という二律背反した気持ちがあると思う。廃止される物に群がるマニアたちにも、それを非難する人たちにも、少なからずそうした欲望と躊躇いはあると思う。両者をどのように調和していくのか。そのバランス感覚もまた趣味人に問われることになる。

カメラを構えると欲望が剥き出しになるのは鉄道マニアに限らない

 閑話休題
 ブルトレが消える!なんて時に、"フィーバー"する層というのは様々なタイプがおり、それぞれ別の動きをしている。

  • 1.写真派<1> 沿線の撮影地で撮影
  • 2.写真派<2> ホームで撮影
  • 3.旅行派 廃止までに一度はお名残乗車
  • 4.収集派 指定券や記念切符、オレカを押さえる。乗るかどうかは別

 正直、鉄道マニアでもナウなヤングの関心はそれほどでもという印象もあるけど、1978年頃のブルトレブームを体験した30・40歳代は熱い。
 で、ブルトレに限らず、"廃止案件"がでたとき、いろいろと問題となるのは写真を撮影するときのマナーやトラブルの話。以下にその状況をまとめてみた。

  • とにかくブルトレの発着する駅でカメラを構えた人が多くなる。あまり遠出ができない若年齢層が中心だけど、鉄分が薄い通りすがりの人も意外に多い。さらに乗車中の旅行派マニアも加わるから大変。大阪駅で見ている限り、廃止報道前は多くても4〜5人程度だったけど、それが今では20〜30人ぐらい、3月には百人を超えて滅茶苦茶になるんだろう。手狭な東京駅や大阪駅、分割併合する鳥栖駅なんて大変そう。ただでさえ混み合っているのに場所取り合戦が過熱気味になる
  • 撮影地でも陣地取り争いが加熱。特に、夜行だと明るい時間に走っていることが少ないから場所も限られてくる
  • 車内でのスナップ撮影。ちょろちょろ動くのが1人や2人なら許容範囲だけど、それが束になるとかなり邪魔な話になる
  • 駅や有名撮影地でカメラを構えている人の一部は、当該鉄道にはほとんどカネを落とさない。鉄道利用だと機動力に欠けるのでクルマで来る人がかなり多い。それだと警備にカネがかかるし、さよならフィーバーが鉄道会社の経営に寄与しなくなるというややこしい問題もある

 解決するのは難しいなあとは思うけど、別にこれは鉄道マニアに限った話ではない。たとえば、ここ十数年ほど、小学校や幼稚園の運動会でのカメラとビデオを巡るトラブルなんて、町内会のレベルのみならずマスコミでも批判的に話題になってきた。野生の草花、アイドルのイベント、事故現場……などなどカメラを原因とした問題はあちこちで発生している。
 鉄道趣味の現場を見ていると、デジカメ・携帯の普及によって、鉄分の薄い層が増えてきたという印象がある。偶然、列車の来る現場に立ち寄ったとか、なんか盛り上がっているので自分たちも見に行こうとか、新聞でやっていたからカメラに撮ろうかとかいうことなんだろうか*3
 それは自分自身でも実感している。中学生から大学生の間、全国各地へ鉄道で飛び回ったが、ほとんど撮影をしなかった。写真に全く興味がなかったからだ。シャツターを押すのはせいぜい一日2、3枚程度だった。ただ、仕事で2000年に一眼レフを持ち、2004年からデジカメを使うようになってから撮影枚数は飛躍的に増えた。多い日には一日100枚ぐらい撮ることもある。昔を知る人間からは驚かれるが、理由は簡単。撮影するのが金銭的にも操作的にもラクになったから。
 アナログカメラの時代は現像代・カメラ操作の面でいろいろ難があったたが、カメラ付き携帯電話、デジタルカメラの普及が加速度的に進んだことによって、鉄道に限らず撮影に対する敷居が飛躍的に低くなった。ビデオカメラの家庭への普及がその象徴的な現象である。

非日常的なシーンを狙うカメラマンたちの性

 だが、そうした撮影器具を持っても、日常的な風景、たとえば家で遊んでいる自分の子供の写真なんか撮っていてもすぐに厭きてしまう。
 となると、非日常的な場所、たとえば運動会やお遊戯や旅行先や、そうした「限定された場所」での撮影に興味の関心が行ってしまう。我が子の、今この瞬間でしか見られない、この場でしか写せない姿を撮っておかねばいけない。「非日常的で限定的な瞬間」というのは撮影者にとって何を増しても"かけがえのない宝"となるから(で、ご本人以外、周囲は関心がないというのも相場)。バーゲンでも食玩でもなんでも限定品によって飢餓感を煽られる人たちと感性は大差ない。
 3年前、ケニアの国立公園でサファリーに行ったときのこと。ライオンがシマウマを食べているシーンを撮ろうと20台以上のサファリーカー(日本の中古ハイエース改造)が1ヶ所に集中し、良いアングルで撮ろうとするツアーの白人たち、それをサポートするガイドの黒人たちが入り交じりながら激しく口論していた。それを聞きながら「ああ、どこでも変わらないんだなあ」と、やれやれって気分になったのを思い出す。カメラを構えると、獲物を狙うハンター同様、己の欲望が剥き出しになってしまうんだろう、たぶん*4

 鉄道マニアも同様である。「銀河」も「あかつき」「なは」も島原鉄道南目線も、走るのは3月まで。どうしてもその限られた時間の中で、オレ的に気に入った場面を撮ってみたい。なぜなら、「今」、「ここ」でしか、「それ」を撮ることは出来ないからだ。趣味人のみならず、あらゆる者が抱えている独占欲がそこにある。発売日に窓口へ行ってブルトレに乗ろうとする人、限定品の切符やグッズを集める人、そして列車の備品を泥棒していく人も、程度の差はあれ、そこらの気持ちは変わらない。
 ただ、「非日常的で限定的な瞬間」に思い入れを持った人たちが同じ場所に過度へ集中してしまう。しかも、撮りたい瞬間や場面、考え方というのは人それぞれによって異なる。カメラばかり見ているから、なかなか他者への配慮に気が回らない。
 そうした「オレだけの瞬間を撮りたい」という剥き出しの欲望がぶつかり合い、様々なトラブルに繋がってしまう。たぶん、そこらの性は、鉄道マニアに限らず、カメラ・ビデオを構えた人、全てに共通することなんだと思う。

廃止と聞くと血が騒ぐ気持ちを否定できない

 最近、"廃止物件"や限定物への関心が過度に集中する背景には、ネットの普及で鉄道情報が容易に取得することができるようになったのも一因だと思う。かつては新聞記事の小さな囲み記事や月遅れの鉄道雑誌でしか確認できなかったし、情報の絶対量も少なかった。国鉄志布志線バス転換のニュースなんて、鉄道雑誌に載ったのは廃止のわずか十日前である。
 ところが、近年、ネットを通して大量に鉄道情報が流れ始めた。プレスリリースすら公開されるようになった。一マニアの「見たまま情報」が簡単に他のマニアにも共有されるようになった。それにより、インパクトのある事象、とりわけ何かが廃止されるとか、一日限りで某線で何かが運転されるとか、そうしたイベント的な鉄道へ関心が集中するようになる。鉄道会社もそうした限定的な所で商売をしようとしている。
 情報が多くなりすぎて、自分にとって何が大切なのかどうか判断しにくくなった。それゆえに「祭り」が行われている所に人が集まってしまうようになったのだろう。
 僕自身、もともとが80年代のローカル線ブームでこのセカイに定着した人間なんで、「●●が廃止!」と聞くと、どこかで血が騒ぐ。キハ58が昨年今年と一気に消えると聞くと、やはりそわそわしてくる。廃止が決まった鉄道や列車、車両の"葬式"に行ってみたい……という気持ちを否定はできない。
 今回も、年末に「銀河」、1月に「あかつき」と島原鉄道に乗ってきた。それぞれ2〜3年ぶりの乗車となる。カメラを持っていったが、人だかりが分散した後に撮った程度。そもそも駅で車両を撮影してもイイ写真が撮れるとは思わない。有名撮影地に人がたくさん集まっているのも見たが、なんで鉄道雑誌やガイドに載っている場所で撮るんだろう。もっと別な所で撮ればいいのに……といつも思う。
 昨年春は、くりはら田園鉄道へ廃止最終日に行った。時期的にそこしか日程が空いてなかったというのもあるが、正直、迷った。1990年に和田岬線の旧型客車最終日に行ったとき、鉄道マニアの一集団が車内にて演説をがなりたて、大声で合唱しているのに出くわし、かなり辟易した体験があり、それから二度と「最終日」というのには行かないようにしていた(僕の日常であった片町駅を除く)。くりはらの場合、若干の混乱はあったが、利用者の多くは地元の方で穏やかな空気が流れていたし、サポーターの方たちが手作りで仕切りをしていて好印象を持った。ただ、夕方頃から何か雰囲気が変わってきたのと、とにかく寒かったので、私は早々に退散した。
 正直、もうすぐ廃止!と言われても、「今のうちに撮っておかねば」とか「乗っておかねば」とか、そんな逼迫した気持ちにはならなかった。くりはらも「あかつき」も「銀河」もこのブログでも淡々と報告した程度。島原鉄道については書くことすら忘れた。消えゆく物に「感動をありがとう」とか感情を込めて語るつもりは全くない。ただ、遠くから静かに見送ることしか自分にはできない。"葬式"というのはそういうものなんだろう。

日常的な鉄道シーンにどれだけ魅力を感じられるのか

 個人的には、みんなが騒いでいる対象からできるだけ距離を置きたい……という気持ちがある。できるだけ、"非日常"的な最終日とかイベントの日とかではなく、その鉄道の"日常"の姿を見ておきたいという願いもある。
 もちろん、私もブルトレや廃止対象線にも関心はある。
 でも、他にも見てみたいもの、乗ってみたいものがたくさんある。普段でも、未訪問駅や郵便局を回ったり、海外鉄道に乗ったり、鉄道史研究のため文献を漁ったり、私鉄・国鉄旧型車を追ってみたり……とそれなりの趣味活動をしている。だから、「祭り」にこだわる必要もないし、自分の思いを消えゆく物へ投影させる必要もない。そうした"廃止案件"を訪ねているのは、あくまでも他の趣味活動のついでである。少なくとも自分ではそのように了解して活動をしている。
 廃止間際の路線や車両、あるいは時期限定の列車などイベント的な鉄道要素を追っかけてばかりいくことへの疑問もある。非日常的な鉄道シーンは確かに魅力的だが、それに依存していては、早晩、鉄道趣味自体に厭きてしまう。非日常的な刺激に浸っていると、日常的な風景を楽しめなくなるからだ。そうやって、「最近の鉄道はおもしろくない。魅力がない」とボヤきながら距離を置いていった人間をこれまで何人も見てきた。
 趣味活動を持続可能にするためにも、自分の守備範囲を広げていくことが必要になってくる。また、ある程度、自分の得意分野を決め、それを継続的に追っかけていくことも大切になる。継続的かつ精力的に一つの分野について追いかけ、知識を深めていっているマニアは少なくない。旧型車両好き、ブルトレ好き、ローカル線好き。そんな郷愁を内に秘めた分野の人間でも、廃止云々が報道されるはるか以前から定期的に追いかけ続けた連中に何人も出会ってきた。廃止間際にちょこちょこと乗りに行く私、あるいは移り気なナウなヤングとは違う"強さ"が彼らにはあった。
 そうした日常の延長線上に地道な楽しみを開拓できるかどうかも一つの"才能"である思う。それは鉄道趣味に限ったことではない。十数年前の宮台真司じゃないけど、「退屈な日常をまったりと過ごす方法」を鉄道マニアも学習する必要があるんだろうなと思ったりもするのだけど、それはまた別の話。

*1:と共に、その鉄道マンは、第三者である記者に対して、本当に「葬式走」という言葉を発したのだろうか。この文脈だと、JR西日本関係者の発言とも想像できるのだが、それはまた別な意味で問題である

*2:ちなみに、私は本ブログで「鉄道マニア」という言葉を良い意味でも悪い意味でも使っていない。昔からこの手の話をすると過剰反応する人が一部でいて困るのだけど、私は口語でも文章でも「鉄道マニア」という言葉を使用している。理由は長くなるが、「鉄道ファン」というのは雑誌名と紛らわしいし、ファンの英語訳には"基地外"という意もある。RJオリジナルの「レールファン」は放送禁止用語を無理矢理変えた雰囲気がして微妙。「鉄道オタク」とは90年代以降にナウなヤングが言っているだけで、実数の多い40歳以上の年配層には実感のない言葉。他者と会話ができないとか侮蔑的な意味があったのは周知の通り。「鉄」は語感が好きでないし、口語ではともあれ文章の中では使いづらい言葉。「鉄道マニア」は種村直樹が80年代に批判的に使ったりしたが、言葉そのものには何の問題もない。そもそも、僕は同業者である連中を「マニア」とか「オタク」とか区別的に表現し、レッテル張りして批判するのは好きではない。自分はそこまで聖人だと思わないから

*3:関心が広まるのはいいんだけど、踏切の中に入って撮影したり、夜でも列車に対して平気でフラッシュをたいていたり……と昔からのお約束が守られていない。端から見ていると少々、危なっかしい

*4:ただ、白人さんは、一度撮ったら他人に場を譲る……という基本的動作ができている人が多いとの印象もあった