「萌え」という感性で合理化を図ろうとしたオタク

katamachi2008-02-23

 ブルートレインブルトレ)の愛称で親しまれてきた寝台列車が3月14日、関西から相次いで姿を消す。(中略)交通機関の進化に取り残されたブルトレの「ゆとり」や「癒やし」を探った。(藤浦淳、小野木康雄)
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/080223/sty0802231156001-n1.htm

 特に目新しい記事ではない。この間、新聞各紙やテレビ、雑誌はこの手の報道をしている。産経もこの記事で全く同じ文脈で伝えている。
 でもなあ。いつも

  • 古いモノが消えていく
  • 惜しい
  • でもコレも時代の流れか

って、ブルトレに限らず消えゆくものに対し、定型的な言葉が使われている。
 それをただ繰り返してしまうだけで新たな切り口を提示しないから、マニアのみならず消費者は"消えゆくもの"を"消費"することに邁進してしまう。そうした感性については2月18日に「「廃止」と聞くと血が騒ぐ鉄道マニアの気持ちを考える - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」という形で書きました。
 しかし、「ゆとり」とか「癒やし」とか、こういったワンパターンの言葉で郷愁を表現するのって、そろそろなんとかならないのかな。記事のスペースの問題とかいろいろ都合があるのは分かるけど、あまりにも手垢がつきすぎているし、工夫がなさ過ぎ。書いた人間が流れ作業で仕事をしているというのがよく分かる。
 それとよく似た慣用的な表現で、どうも気になるのが「萌え」。90年代後半からオタクの中で一般化し、2002年頃から社会的にもそれなりに認知されるようになった。

「萌え」というと他人に自分の"感性"を伝えるのがラクになる

 自分が「オタク第二世代」(1970年前後の生まれ)。すなわち「萌え」との言葉が普及する前から趣味活動をしていた人間だからというのもあるが、これを口語や文書でなんの躊躇もなく使われているのを見ると、なんか違和感を覚える
 最初に聞いたのは90年代前半のコミケだったか。文脈と語感からなんとなくその意味は理解できた。岡田斗司夫の「オタク学入門」(1995年)でその由来(「恐竜惑星」は??)と意味を再確認できた。
 それがオタクのセカイで一般的になったのはLeaf/AQUAPLUS制作のエロゲーTo Heart」(1997年)の頃だったか。親しい知人が「マルチ、萌え萌えっスよ」とか言っているのを聞いて、「お前、何があったんだ」と問い詰めたことがある。いや、パソ通でよく使われるようになつたのでマネしただけで、深い意味はないということらしい。
 「萌え」というのは特に定義がない言葉だ。「Wikipedia 萌え」を見ると、複数の執筆者がそれを定義しようとした形跡が見られるが、すればするほどドツボにはまっていく様子が見受けられる。
 定義が難しいのは、「萌え」という言葉が、「ゆとり」・「癒し」と同様、"個人的な感性"を指し示す表現であるから。人によって"感性"は異なるのだから、話者それぞれの"感性"が共有されるわけもない。
 90年代のオタク系ナウなヤングが「萌え」という言葉を使いたかったのは、

  • 仲間内だけで通用する言葉を使っているという"愉しさ"、
  • 熱血系の「燃え」を誤変換させて別な意味を持たせるという"おかしさ"

という表面的な要素の他に、

  • 何かに「魅力を感じる」というのを簡単に他者へ説明できるから"ラク"
  • 「萌え」という言葉を使っている"自分が好き"

という個人的な感性も要因としてあったと思う。
 いちいち、●▼というキャラの魅力について、拙い自分の言葉を長々と並べなくても、たった一言「萌え」という言葉で表現できる。そして、「●▼に萌える」という自分の感性を簡単に他者へ伝えることもできる。「●▼に、萌え萌え」という自己演出もできる。あらゆる意味での"合理化"がここで図られることになる。

「萌え」という言葉で合理化されてしまう文章ってどうよ

 そうした"合理化"された"感性"が、ネコ耳とかメイドとか「萌え属性」でパターン化されることによって、オタクの消費スタイルは激変した。
 となると、「オタク第二世代」である僕には分からないセカイになってしまう。みんながみんな「オレの感性が分かるかな。分かんねえだろな。」と言い出してしまったからだ。2000年に半年間ほど海外へ行っていたのだが、その間、オタク文化とふれ合うことはなかった。帰国後、僕は「オタクカルチャー」に付いていけなくなったことを実感し、「おジャ魔女どれみ」シリーズ終了と共に距離を置いた。
 もちろん僕と同世代や上の世代でも現役で「オタクカルチャー」について行くべく「萌え」について自分なりに消費されるいる方もいらっしゃるんだろうと思う。「オタク第三世代」は、萌えとは何か自己言及しながら立ち位置を模索しているんだろうと言うことも分かる。
 ただ、「萌え」という言葉が普及することによって、「なぜに自分は●▼というキャラや作品や属性について興味を持つのだろうか」と振り返ることが少なくなってしまった。ただただ「萌え」、「萌え」、「萌え」と繰り返すだけ。これを使えば、他人にも自分自身にも「萌え」という感性だけは伝わる。なんてラクな言葉なんだろう。
 「なぜ『萌え』るのか」という思索の方がもっと大事だし、それこそが対象に深くアプローチできる手段だと思う。「萌え」という"感性"を他者に伝えるには、本来、多大な努力と言葉と能力が必要だ。冒頭の産経新聞に対して違和感を覚えるのも、執筆をラクにするため「ゆとり」や「癒し」という感性が使われているからなんだろう。「ゆとり」や「癒し」とはなんなのか。そこを切り込んでこそプロの書き手だろうにと私は思う。少なくとも、僕の尊敬していた宮脇俊三はそうやって鉄道紀行を紡いでいった。
 でも、そこまで言うと、もはや年寄りの繰り言に過ぎないのかもしれない。別にオタクに限らず、ポストモダン以降の社会全体がそうした消費スタイルに変わっているのだから致し方ないのだろう。
 あえてそこで世代的断絶を指摘するのなら、オタク第二世代以前は「ガンダム」や「ヤマト」や様々な共通言語を持っていたから、自分たちの「萌え」という感情のベースに何があるのかイメージしやすい。鉄道マニアだと「ブルートレイン」とか「ローカル線」とか「国鉄」というのが同じキーワードになる。でも、それがない世代は「萌え」という"感性"を共有するのは難しいんだろうなあとも思うのだけど、それはまた別の話。