"中心"が空洞になっている東京。都市機能の多核化を図った地方都市。

katamachi2009-02-13

 前回の「"中心"が存在しない日本の都市にコンパクトシティは似合わない。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」。予想外の反響に正直驚いた。以前、鞆の浦とポニョの話京品ホテルの話Yahoo!ニュースにリンクされたときはpv数が1万数千/日になったが、その時とは別種の反応はあった。と共に、はてなのトップページに2日間掲載されるというのはこういうことなのか……と実感できた。"はてな村"の住人たちで、自分たちの住む"都市"って何なんだろう、と漠然とした疑問をお持ちの方が多かったということなんだろう。
 内容的には、

  • 日本の都市の都市では"核"としての機能が失われたことを指摘
  • 中心性を欠如したままで"コンパクトシティ"なる舶来の発想を持ち込むことに疑問

を中心に展開した*1。また、中心市街地および郊外の是非に対する価値判断には触れないように努めた(つもりだ)。
 今日は、日本の地方都市の中心市街地が空洞化していった原因について。

街の"中心"性を持ちながらも、頂点に空洞が広がる東京

 ヨーロッパの都市にとって、"旧市街"という存在がカギとなるというのは、現地を訪れた方なら承知のことだと思う。城郭の中に市街地が発生し、それが都市国家設立の基盤となったというのは中世史ではお馴染みの話だ。近世、近代、そして現代になっても市街地は中心性を保ち、政治や宗教や祝祭の場になってきた。
 一方、日本の都市は微妙に異なる。1910年代からの産業革命で大阪と東京の人口と市域が劇的に拡大して、周辺の農村集落を飲み込む。1930年代には他の産業都市も肥大化し始め、戦後、そうした現象が地方都市でも見られるようになる。市域の拡大と共に"境界"は意味を失う。
 かつて城下町や寺内町など環濠で覆われた都市は存在したが、その名残はほとんど現在残っていない*2。というか、近世の城郭自体が、市街地の外れにあった。大坂城は江戸期の大坂の東端に位置する。名古屋城は北端、二条城(京都)は西端。仙台城などもしかり。そもそもお殿様自身が、天守閣に住んでいなかった。しかも明治以降、公共施設の用地として提供される一方、政治的・経済的中心性を失ったことで、街のランドマーク以外の要素を失った。
 ただ、東京は違うのでは……と指摘するのは東京大学教授で建築史を専門とする、というか近代建築マニアの藤森照信路上観察好きにはお馴染みの名前だ。
藤森照信研究室http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/
 藤森は、彼を世に知らしめた「建築探偵の冒険〈東京篇〉」で「皇居が見つかった」という一文を記している。
 古い建物と街並を求めて東京中を歩いて十数年。ふと気がつくと、その中心に皇居がそびえる。みんな知っていながら、なかなか皇居という存在に出会えなかった。
 いざ皇居という存在について調べてみようにも、東京論を展開する文章からはまったく黙殺されている。その理由は「文学者や評論家の肉眼マナコに入るにはあまりにもでかすぎる」から、らしい。そんな、いつものような軽妙な切り口で、しかも広く深く過去の文献を彫り込みながら、彼の愛する東京という特異な街を描き出していく。

建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)

建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)

明治の東京計画 (岩波現代文庫)

明治の東京計画 (岩波現代文庫)

 江戸という街は、日本の城下町としては珍しく江戸城を取り囲むようにして市街地が形成された、と藤森は指摘する。東京と名を改めてからも、道路や経済機能、官庁街、住宅も皇居の回りに張り巡らされた。
 周辺の農村地帯から中心に向かって徐々に都市活動の密度は高まっていき、その頂上にあるのが皇居。お子様ランチの日の丸みたいに立つその一帯だけが空洞になっている。
 東京という都市は、単一の中心核を持っていながらも、その中心だけが空洞になっているというのだ。と、ロラン・バルトの「表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)」の「神聖なる<無>」という言葉を引きながら、当たり前すぎて誰も気付かなかった"事実"を資料と観察眼を元に組み立てていく。
 で、その日本の中心にある空間の田んぼで春と秋にコメ作りに勤しんでいる人がいる。日本にも、世界にも類を見ない都市空間がこの街にだけ存在する。
 ご先祖様から代々稲刈りを続けてきた、あの人。政治的にも文化的にも、ここは"核"であるはずなのに、絶対的な権力は従前から存在しない。日本という曖昧で不安定な社会の根本はここかな。中心性が欠如していても、責任云々とかから超越していても、あうんの呼吸で成り立ってきた。彼のことを考えると、いろんなことを想像できるのだが、あえて藤森はそこらに触れない。ただ東京という街の片隅から遠くに霞んで見える皇居に目を注ぐだけだ。
 

60年代以降、東京や大阪で都市機能の多核化と分散が進む

 ただ、戦争による被災を経て、東京はさらなる拡大を続ける。高度成長を迎えて人口が急増していく中で、1960年代初頭には中心部の都市機能への過度の集中が課題となってくる。道路渋滞や地価高騰などの問題が深刻になってきた。日本第二の都市である大阪も同じ悩みを共有していた。
 そこで、東京と大阪は、周縁部に新たな"核"となる街を整備しようとした。いわゆる副都心計画。乗換駅に付随する繁華街でしかなかった新宿や池袋、新大阪に隣接する区画整理地域で高層ビルが林立するようになるのは70年代になってからである。

都市圏多核化の展開 (大阪市立大学経済研究所所報 (第35集))

都市圏多核化の展開 (大阪市立大学経済研究所所報 (第35集))

 東京ではこの時期に拠点の分散が図られたことが功を奏した。80年代になって日本経済の東京一極集中が顕著になってくると、副都心は様々な事業者が立地するための受け皿になっていった。山手線内の様々なエリアで再開発が進み、新たな街と都市機能が生まれる。千葉、大宮、横浜、八王子など電車で30〜50分ほどの都市も変貌していく。バブル崩壊を挟みながら、世界都市にも対抗できるだけの力を集めていく。六本木などでは大手デベロッパーによる大規模開発が進み、都心に隣接したところで高層ビル・マンションがいまだに建てられている。十数年前には大失敗となる危惧もなされた有明埠頭も今ではそれなりに街として成熟している。地方の停滞と比べると、ヒトとモノとカネの集まり方は凄まじい。
 だが、大阪市は60年代半ばから急激な人口減に見舞われる。手狭で住み良さに欠けた市街地から郊外へと人口の流失が始まった。経済力の衰えも目立ち始める。大阪市に対抗意識を燃やす大阪府は、市域外に巨大な環状道路を敷設し、その沿線に千里・泉北の二大ニュータウンや堺泉北コンビナート、そして工業団地や輸送拠点を整備していく。
 こうした都市機能の分散と多核化は、経済圏の中核となる大阪市中心部の都市機能を低下させるに至った。80年代から90年代にかけて、市も府も、失地を回復させるべく関西空港や大阪ベイエリア都心部での再開発に巨額の資金を投じた。だが、時すでに遅し。今さら東京圏に追いつけるはずもない。投資に見合っただけの成果を挙げられず、かといって一度始めた事業を中止することもできず、やがて危機的な財政状態へと追い込まれる。

地方都市の郊外化と中心市街地衰退を促した都市機能の"多核化"

 そんな中で、70年代後半から「都市経営」という言葉が盛んに語られるようになる。その成功者として語られたのは神戸市。山を切り開き、土砂を海岸で埋め立て、陸と海に新たな街を誕生させ、先進的な都市機能を構築していく。民間の資本やアイデアを借用した"株式会社神戸市"とも称されたその手法は、地方都市の目指すべき方法として注目を浴びた。
 当時、市長だった宮崎辰雄(元革新系の候補)がそのイニシアティブをとり、市役所幹部であった高寄昇三が"株式会社神戸市"の理論的構築をし、様々な出版物で"都市経営の大切さ"を世に知らしめていく*3

現代都市経営論 (1985年)

現代都市経営論 (1985年)

神戸・都市経営の崩壊―いつまで山を削り海を埋め立て続けるのか

神戸・都市経営の崩壊―いつまで山を削り海を埋め立て続けるのか

 背景には、

  • 永年、地方公共団体が求めてきた"地方分権"という言葉への願望。
  • 70年代の低成長期に歳入が伸び悩む中で、行政改革が必須の課題になっていた。そして効率的かつ戦略的な自治体運営が求められていた
  • 民間企業の資本や手法を援用した"民活"。そして官民合同で経営する第三セクターへの漠然とした期待
  • プラザ合意以降の「内需拡大」を求める外圧や政府、経済界の意向

といった状況がこの時期にはあった。かくして地方都市は、80年代半ば頃から"地方の時代"にふさわしいまちづくりに邁進することになる。
 その羅針盤となったのが、長期総合計画(総合計画)である。
 これは地方自治体の都市計画の基本となる計画で、街の基本理念や方向性を示す「基本構想」、基本的な施策や事業を体系的した「基本計画」、それを具体化するための「実施計画」の三要素が盛り込まれている。約十年に一度作成されるこのプランを元に、自治体は政策を展開していく。
 目指すは、「人と自然が調和し、豊かさと心ふれあうやすらぎのまち」(30年前の東村山市)。その言葉の軽さに僕なんかは空々しいモノを感じるのだが、とにかく市民のため、街のためを思って、役所の人たちは計画実現に邁進し始める。
 税収をアップさせて市民に"豊かな"生活をしてもらうには、商業や工業の拠点を造りたい。モノを運ぶ物流網も整備したい。あれもしたい、これもしたい。夢だけは膨らむ。
 ただ、既存の市街地での開発には困難が予想される。権利関係が複雑な上に、地価は高いし広い土地の確保は不可能。都市経営を可能とする先進的な施策を展開するのは難しい。
 そこで、郊外に注目をする。既存の市街地から数キロ離れた集落に都市機能の一部を分散させ、多核的なまちを作り出そうとした。それが新時代の地方都市には必要なんだ、と少なくとも役所の責任者は考えた*4

そして総合計画を元に「多核多重構造」→郊外重点の街が出来てきた

 "長期総合計画"でググると、こんな自治体の総合計画が上位に出てきた。

 世界遺産のお城を抱える産業都市、姫路市はこんな多核化構造を持つ都市イメージを持っている。

 これらから、姫路市の都市構造は、中部市街地を広域生活圏における主核とし、各地域ブロックを基本単位とした地域生活圏が複合、連携した「多核多重構造」の都市形態となっています。
姫路市の都市構造

 生活圏と開発エリアがきれいに重なっていれば職住近在の理想的な街が出来るのかもしれないが、なかなかそうはいかない。
 昨年末、LRT(新時代型路面電車。ライトレール)の導入を巡って市長選が展開されかけた(途中でうやむやになった)宇都宮市だと、こんな感じ。

 一極集中は、自動車交通の増加とともに、慢性的な渋滞を発生させ、都市活動の低下や無秩序な拡散をもたらすと危惧される。
 そのため、鉄道や広域幹線道路等の交通の要衝を核として、土地利用と交通のバランスの取れた多極型構造の都市として、地域の均衡ある発展を目指したまちづくりを進める必要がある。
うつのみやのまちづくり 都市計画マスタープラン

 多極化した場合って、一番、LRTを含む公共交通機関が困るケースです。市民の移動が多種多様になってしまい、最大公約数的なルート設定が難しくなる。どうするんだろ。
 まあ、浜松や姫路、宇都宮に限らず、県都クラスの20〜50万人程度の街も「多核多重構造」と謳っている。中心部よりも、そうした周縁部の"核"に重点投資をしてきたのが、ここ25年ほど、全国の地方都市で展開された施策だった。正直、「昭和の大合併」以前の旧町村域の住民にも配慮して市税を総花的につかおう……という平等主義的な発想がそこにはあった。
 政策的には、矢田俊文ら地域構造論*5を提唱する経済地理学方面からのアプローチが、1987年の第四次全国総合開発計画も含めた政府の方向性に反映されたとも言われている。そして、多極分散型国土の形成を目指す中央の方針が、地方の政策にも影響を与えた。

地域構造論の軌跡と展望 (MINERVA現代経済学叢書)

地域構造論の軌跡と展望 (MINERVA現代経済学叢書)

 かくして地方都市は、"核"となる拠点を結ぶ幹線道路を敷き、国道のバイパスを繋げ、インターチェンジを作り、工業団地と物流拠点を整備していく。区画整理されたエリアには公共施設と三セクのビルが建てられ、新たな"核"が誕生する。それを追うようにして、数年前まで田んぼだったロードサイドに、スーパーやファミレスなどの郊外型店舗が新規に集まってくる。少し遅れて、いわゆる大規模小売店舗も郊外の拠点へと進出していく。それに輪をかけるように、自治体は市立病院や市民ホール、学校、そして市役所自体も郊外へと移していく。
 人口20〜50万人程度の県都クラスから、人口1万人程度の町でも、多かれ少なかれ郊外に公共施設が整備されていく。それに対し、政府も気前よく補助金をはずんでくれた。
 おらが集落にも何か目玉が欲しい。地方議員たちは予算の争奪戦を始めた。都市周辺で広大な敷地を持つ地主さんたちもそれを歓迎した。なにより、クルマを持つ多くの市民が郊外型の生活スタイルの利便性を享受した。
 バブル経済の崩壊にみんな気づき始めたのは1993年頃。この時期だと、地方都市のインフラ整備はまだ道半ば、という段階か。そろそろ岡山県大阪府がヤバいゾと言われ始めていた当時。ここで止めておけば出血はまだ少なかったのかもしれないが、「地域経済の底支えのため」とか名目は変わりつつも、財政出動が行われていく。
 そして、あるとき、気がついた。地方都市の中核だったはずの旧市街地から人影が失われたことを。

"核"を失った中心市街地からヒトもカネもモノも消えた

 すでに1980年代半ばには地方都市のみならず大都市でも商店街の衰退が叫ばれていた。にも関わらず、長期総合計画に描かれたデザイン通りに郊外での公共投資が進められていく。
 それがあらかた完成した90年代後半。かつて都市の"核"だったエリアの衰退は決定的なものになる。駅前や旧市街地に立地していたスーパーや百貨店などの大規模小売店ですら経営難に落ち込む(特に、そごう、ダイエーなど)。政府や議員たちは慌てて中心市街地の活性化に取り組むが、客足が遠のいた街に人を呼び寄せるのは簡単なことではない。大店舗法の改正がさらなるダメージを与えながら、2009年現在に至る。
 経済の自由化・国際化、東京一極集中、少子高齢化モータリゼーション、農業の問題......いろいろ中心市街地衰退の原因は挙げられる。
 ただ、最大の要因を挙げるなら、地方都市がこの二十数年間続けてきた"総合計画"に根本がある。
 東京のような首都なら、頂点である皇居に空洞があろうがなかろうが、ヒトとモノとカネは集まり続ける。だが、第2位の大阪ですら郊外化によって都市機能の配置がアンバランスになった。ましてや地方都市で、わざわざ農村部に拠点を造ってまで開発を促進させていく必要があったのか。
 結果として、都市機能の多核化にともなう市街地の分散化に、中心市街地は耐えうるだけの力を持っていなかった。
 「コンパクトシティ構想」というのは、そうした都市機能の多核化、分散という発想に対するアンチテーゼとして期待されているのだろう。開発のターゲットを郊外から既成市街地に戻すことで、中心性の高い都市作りを目指す。人口減と財政抑制に見舞われる近未来には、"効率的"な都市が実現できるかもしれない。

コンパクトシティ―持続可能な社会の都市像を求めて

コンパクトシティ―持続可能な社会の都市像を求めて

 理念としては正しいのかもしれない。でも、処方箋ではない。
 確かに、都市の"核"が、まだある程度、中心部にある自治体なら"可能性"はあるかもしれない。郊外化のスピードを緩める程度には役立つかも。
 だが、人口20〜50万人程度の県都クラスでそんな都市があるのかどうか。役所がそのスローガンを標榜している青森市富山市では実現可能なのか。単に国から補助金を引っ張り出すための"方便"に過ぎないのでは。
 ましてや、中心部が「自滅」してしまった都市ではどうなのか。
 役所や病院や物流機能やなんやらを都心部に戻す。巨大な商業施設を中心部に造る。土地利用の高度化を目指す。
 う〜ん、既存市街地っていまだに地価が高くて用地買収も難しいのに可能とは思えない。できたらバブルの時にでもやっているって。実際、大阪市大阪府は80年代から90年代にかけて中心部と郊外部で同時多発的に大規模事業を展開して、そのどれもがうまく回転しなくて危機的な状況に追い詰められている。
 かくして地方都市は未来図を描けなくなった。政府からの補助が削られていくのに、自己責任で自主財源を突っ込んでまでやってみたいアイデアもない。展望が開けないままでは、総合計画なんて立てられようがない。

自分たちの都市に関心を持たれたのなら、調べて欲しいことが1つだけある

 この事業をやれば、おらが町だけは、税収が上がる。人口も増える。"市民のため"に"善意"でやった施策の多くが裏目に出てしまった。
 「市民の、市民による、市民のための政治」なんていいいながら、

  • どこかの総合計画や都市計画系コンサルタントのプランを丸写し
  • 自分の自治体は絶対失敗することはないという確固たる信念(というか、都市経営の失敗に対する無責任)
  • 状況が悪化しても、「公共事業なんだから採算度外視」(これもよく使われる言い訳)と言い切って最後まで強行
  • 悪いのは経済状況、政府が補助金をくれないから、頑張ればなんとかなる、大器晩成だ将来を見てくれという当事者性に欠けた姿勢

ってのを繰り返してきたから財政赤字が止まらなくなる。
 十数年前に役所が作成した需要予測を見れば、その杜撰さと経営センスのなさは一目瞭然だ。大きな器を作りすぎた上に、失敗が明らかになっても撤退する勇気を持てなかった。大阪だと、関西国際空港と関連開発がその象徴だ。
 そして、現在。大赤字をもたらした三セク施設や大規模開発の音頭取りをしてきた連中はすでに役所にはいない。地方公務員は政策の失敗をしても責任をとらされることはない……と、地方公務員法第27条を読む限り、そう理解するしかない。というか、大開発運動を促してきた中央政府の役人も、当時の首長を含めた幹部たちもすでに退職済。議員さんは知らぬ存ぜぬ。


 僕にも20〜40歳代ぐらいの公務員の知り合いは少なからずいるんで、ここで述べたようなことをもっと露骨に具体的にツッこんでみたりもする。
 彼らもみんな分かっているんですよ。財政が苦しい理由ってのを。ここ10年ほどの公務員叩きで辟易としているヒトも多そう。「公務員ってロクでもない。」と公務員さんらしい匿名のボヤきがあるが、その気持ちも分からないわけではない。あんたらがしっかりしろよ、と言っても、彼らの多くは日々の仕事に追われて、自治体の全体像、総合計画を考える立場とは懸け離れている。
 あのとき、類型的な主義主張や地縁、利害対立から距離を保ち、自分たちの力で考えようとしている人たちが総合計画を作成していれば、もう少し違った未来があったのかもしれない。
 でも遅すぎる。


 こう書き連ねると、半年前に書いた「誰が何のために「限界集落」を守らなければならないのか? - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」と同じ話の流れになってしまった。
 まあ、僕は今こそクルマと大規模店を排除すべきとか、中心市街地に資金を投じて活性化すべきとか、中央集権体制や自民党政治や利益誘導型の議員や土建屋さんや大手企業が悪いとか、日本共産党が政権を取れば日本は救われるとか、なにか主義主張を語りたくてこのエントリーを書いたのではないんで別にそれでもいい。ただ、80年代から進められた都市機能の郊外分散が中央市街地疲弊の遠因になったと指摘し、ここの話はおしまいにする。


 最後に、1つ。アドバイスをしたい。
 もし、自分たちの都市に関心を持たれたのなら、ぜひ各地方自治体のホームページなんかにある「長期総合計画」「総合計画」を見て欲しい。調べたい自治体名とあわせてググれば、出てくるはず。
 たとえば浜松市だとこんな感じ。→http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/admin/totalplan/totalplan/kihonkousou.html
 なんか急遽、作りましたという感じが漂っている。"「環境と共生するクラスター型都市」を目指します"とあるなあ。合併したところなんで、周辺部の旧市町村エリアにも目配りしないといけない、と。総花的な予算の分配が行われて郊外化がさらに進みそう。
 「平成の大合併」が終わったばかりで新しい総合計画が完成していないところもあるし、ホームページに載っていないところもある。そういうときは、近所の図書館に必ず置いてある。200ページぐらいの分量もあるが、本編だけだと読みやすくは書かれている。ネットだけではなく冊子で、そして80年代90年代の過去の総合計画にもきちんと目を通して欲しい。近隣の市町村、あるいは類似サイズの他都市と比べてみたりするのもいい。なにがこの街に足りないのか。実際にどういう計画が実行されてきたのか。何年も前の都市計画地図を見ながら、今の風景と照らし合わせるのは、楽しくかつ有意義な作業だ。

 ただ、学生時代、何百という総合計画書を読み飛ばしてきたが、あまりにも退屈な作業だった。この市も、あの市も、みんな書き方や主張がワンパターンなんだよね。「にぎわいと活力あふれるまち」とか「 人の出会いとふれあいを大切にするまち」とかなんとか。もう内容面でも考え方でも雛形が80年代にパターン化されていて、それをただ丸写ししているだけ。固有名詞を変えれば他の自治体の総合計画にも転用は可能。ひどいところでは、都市計画系のコンサルタント会社に丸投げしているところもあるんだとか。そう考えると寂しくなってくるのだけど、それはまた別の話。

*1:"ためにする議論"への違和感もあった

*2:逆に、それを辿ろうと僕なんかは町歩きを続けている

*3:個人的には、阪神大震災の直後、宮崎氏が市立中央病院を市街地から埋立地に移したことに後悔する旨のコメントをしたのが印象に残っている

*4:本気で自分のアタマで考えたのかどうかは大いに疑問である。たぶん、どこかのエライ人が言っていたことの受け売りなんだろう

*5:経済地理学会と称するホームページによる地域構造論批判http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/gakkai/faq.htmlここで何があったのか。別な意味で気になる。矢田のグループに嫉妬する人たちは少なくなさそう