「ジャーナル」の西武新宿線&地下鉄の話

katamachi2006-11-22


 昨日も鉄道趣味誌の発売日でした。

 今月号の「鉄道ジャーナル」で興味深かったのは、西武鉄道もと常務の長谷部和夫氏の回顧。西武新宿線営団地下鉄(東京メトロ)に乗り入れようとしてかなわなかったその経緯を書いてあるんです。これが鉄道史好きには興味深い。

鉄道ジャーナル 2007年 01月号 [雑誌]

鉄道ジャーナル 2007年 01月号 [雑誌]

 ご存知のように、大手14社の中で唯一社史を出していないのが西武鉄道です。戦時中から戦後にかけて堤家が西武鉄道を支配していった過程には不透明な部分も多く、趣味的にはかなり興味あるのですが、だからこそ自らの歴史をまとめるような本を出したくなかったのでしょうか。かつて運輸省の地下倉庫にあった鉄道省文書を見ていても断片的なことしか書いておらず、分かりづらい部分もあった。

 佐藤信之の解説の前段階から説明していきましょう。

西武新宿線の都心乗り入れ構想

 まず、旧西武鉄道は、1926年2月に高田馬場〜早稲田間の免許を取っている。これは、現在の新宿線(村山線)の前身が起点とした高田馬場駅からさらに先、早稲田地区への延伸を目指したものです。現在の東京メトロ東西線(当時は、東京市営地下鉄)の戦前時点での計画区間は、池袋〜早稲田〜東京駅〜洲崎となっていました。これと連絡しようとしたのでしょう。
 ただ、1948年に早稲田への免許が失効しています。また、東京市の地下鉄計画も変更され、西側の終点は池袋から中野に変更されている。都市交通審議会でも同様。その後、新生・西武が目指したのが、新宿駅乗り入れ、そして地下鉄乗り入れだったのです。でも、そこらの調整がうまくいかず、中途半端に終わってしまう。
 そこで、当初、運輸省と仲が悪かったこともあって地下鉄乗り入れに消極的だった堤康次郎が方針転換。営団線との連絡を模索し始めるのです。
 驚いたのが、

長谷部
 西武グループの創業者である堤康次郎、我々は"大将"と呼んでいましたが、大将と東急の五島慶太との確執が原因だったのです。

というコメント(p.116)。いやあ、西武もついにここまで来たのですね。先の証券取引法違反による堤義明の辞任で重しがようやく取れたのでしょうね。
 さて、時系列的にまとめると、こんな感じでしょうか。

  • 1948年  西武 高田馬場〜早稲田間失効
  • 1956年  都市交通審議会の1号答申路線が策定 5号線は中央線との乗り入れ示唆
  • 1956年頃 西武が運輸省営団に乗り入れを検討→相手にしてもらえず 
  • 1962年  都市交通審議会の6号答申路線が策定
  • 60年代  今度は西武池袋線と8号線(有楽町線)の乗り入れを模索 

 その後、8号線である有楽町線との乗り入れを巡って、営団や東京都や運輸省東武との間で駆け引きが繰り広げられる。中村橋に予定されていたという車庫、後から東武有楽町線乗り入れに参画してきた経緯、複々線区間となる13号線の部分は東武中心に推進された計画であった......などなど、なかなか貴重な裏話がたくさん盛り込まれています。ここらは東京都や営団東武の社史などにも書いていない話ですね。正直、面白い。もう"戦後"を知る元西武社員も少なくなっているのでしょうが、佐藤信之はぜひこれからも聞き書きを続けていって欲しい。<参考>西武新宿線池袋線を結ぶ短絡線の話

■未成線・廃線 西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その2)
■未成線・廃線 西武鉄道新宿線と池袋線を結ぶ連絡線計画(その1)