鉄道マニア心をくすぐってくれる安治川トンネル

 上の阪神なんば線の工事現場を歩く - とれいん工房の汽車旅12ヵ月のおまけ。
 阪神なんば線の建設現場を歩くなら、一つ見逃せない施設がある。
 アーチ橋で安治川を跨ぐ箇所のすぐ隣にあるコンクリートの建物である。シンプル・イズ・ベスト。モダニズムがまだ市民を魅了していた時期の建築物だ。ここは西九条地区と九条地区を結ぶ安治川隧道の入口にあたる。



 建物の前では自転車5、6台と歩行者5人ほどが待ち受けている。みんなエレベータがやってくるのを待っているのだ。
 1分ほどするとエレベーターがやってきて、すーっと扉が開く。先客たちが降りたのを確認した上で、係員の案内に従っていっせいに乗り込む。詰め詰めで入ると自転車は十数台は入るほどの大きな施設だ。

 待っていた客が乗り込むと、すぐ扉は閉まる。そして20秒もすれば、地下の乗り場に到着。僕らが降りたのを確認した後、今度は対岸からやってきた人たちが乗り込んでいく。ここらの流れはかなりスムーズ。我先に乗り込もうとしても、エレベータそのもののサイズは決まっているわけで、そこらは毎日のように行き来している常連さんなら先刻承知。
 ここからは100mほど、安治川の下を潜るように地下道が続いている。真夏なんかでも、地下であるがゆえに、ひんやりしているんだよね。過去に何度かここで涼んだこともある。
 地下道内は自転車搭乗禁止となっているのだけど、横着する人も1人だけいた。エレベーターの係員が笛を吹いて「乗っちゃダメだよ」と警告するが、完全に無視。幅が狭い上に、地下ゆえに路面も濡れているし、対向してやってくる人たちがいたらかなり危なそう。もちろんほとんどの人たちはマナーを守ってらっしゃったけど。

 対岸である九条側にもエレベーターがあって、これに乗って上がれば九条側に到着する。
 さて、この安治川河底トンネル(安治川隧道)。一応、大阪市市道扱いになっている。ゆえに担当部署も建設局。係員も24時間体制で常駐していて、エレベーターは6〜24時の間、稼働している(夜間は階段を利用)。エレベーターで管理人が案内するのは朝夕のみで、昼間は市民が自分で操作しなければならないのだけど、時間外でも立ってくれているときは多い。
 トンネルができたのは1944年と意外に古い。
 当時、源兵衛渡という渡船が西九条地区と九条地区の間を結んでいた。

 大戦期に入って西九条界隈では小工場が多数進出しており、この渡を行き来する通勤客は激増していた。大阪市は大正期から市内各所の河川に道路と路面電車を併用させる鉄橋を次々と架けていき、市電網を市内各所に張り巡らさせていた。西九条から千鳥橋付近の住民にとっても九条・難波方面へ結ぶ手段は確保して欲しい。市電ならずとも、市民の通行に支障がないような移動手段を設けるのが緊急の課題になっていた。
 だが、安治川を跨ぐ橋を架けるのは困難だった*1。九条からもう少し上流の中之島界隈に大阪中央卸売市場や梅田駅など水陸連絡の拠点があつて、そこへ向かう船が行き来していた。その運航の妨げとなる橋を架けることが難しかったのだ。

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 そこで、橋がダメなら地下道がある……と、作られたのが安治川隧道である。鉄骨やコンクリートなどの資材も払底していたはずの1944年にオープン(着工1935年)ということからも、ここのルートの重要性がなんとなく分かるだろう。
 当初は自動車用のトンネル部分もあったのだけど1977年に廃止されている。建物には自動車用のエレベータ扉が今でもそのままになっている。

 一時期、大型車も通行できるように改築・新設のトンネルを造る構想もあったようだが地元の反対などもあって実現していない。エレベーターに乗る順番待ちのことを考えると上流部に架かる橋を渡ればいいと思うし、あまり必要性はないような気もする。でも、昇降スペースにクルマが乗り込むシーンは、一度、ナマで見たかったなあと思うのだけど、それはまた別の話。

*1:安治川を跨ぐ初めての橋は、隧道から400mほど下流を行く大阪環状線(1961年開業)の鉄橋。桁下の高さは平均水位(OP)より12.5mという位置で設定されている。橋を建設するならできるだけ低い位置の方が安くつくわけで、敷設時の協議でも費用負担も含めていろいろ揉めている。