種村直樹が29年間の「外周の旅」で失ったあれこれ

katamachi2009-06-09

 列車などで日本一周の旅をしていた鉄道作家の種村直樹さん(73)が6日、ゴールの東京・日本橋に到着した。「日本列島外周気まぐれ列車」と銘打ち、29年かけ北海道から沖縄まで反時計回りに巡った。
雑記帳:鉄道作家の種村さん、29年かけ日本一周ゴール毎日新聞2009年6月6日

 「鉄道作家」……って、カワイソウです。朝日の「日本外周列車の旅、30年目でゴール のべ493日間」でも「鉄道ライター」とされているよ。
 きちんと「レイルウェイライター」って呼んであげてください。日本で唯一のレイルウェイライターであることに自尊心を持ち、かつそれを守ることに作家活動の全てを注いできた人なんだから。
 元毎日新聞記者で日本で唯一のレイルウェイライターである種村先生の偉業を飾るべく、周囲が呼んだから朝日と毎日で記事にされたんだろう。29年前からやることは変わらないなあと思うのだけど、取材にきた人たちも困っただろうなあ。この鉄道作家or鉄道ライター。なんで、「日本外周列車の旅」だか「日本列島外周気まぐれ列車」だかいう旅を続けてきたのか。目的は何なのか。動機は何か。そして長い旅で何を得たのか。さっぱり理解できなかったんだろうと思う。
 社会面の隅っこにたまに日本列島を自転車でor徒歩で横断した人が記事になったりもするんだけど、そうしたシロウトさんたちと扱いが変わらないのがなんとも。コメが「最も楽しかったのは、鉄道のない離島での人々とのふれあい」というのもなあ。
 旅の目的が、よく分からないというのは鉄道マニアにとっても同様。「『外周の旅』か……何もかも皆懐かしい……」ってのが僕の感想です。それ以上でもそれ以下でもない。

郵便局、郵便局、船、バス、また郵便局、晩飯……

  確かに本当に懐かしいんだよね。彼にちょっとでも興味がある(あった)人間だと、彼の全盛期である80年代から長らく続けていたライフワーク(ライフトラベル)であることはみんな知っている。
 そして、懐かしいんだけど、その29年の旅の過程に何があったのか。さっぱり思い出せない。あるとしたら、今は「外周の旅」どころか種村直樹そのものにも興味を抱くことができないということ。言い換えるなら、この29年間で僕らも鉄道も何もかも変わってしまったのに、種村先生は何も変わっていない。そうした時の残酷さを再認識させてくれる。
 だって、種村先生。この旅を通して、というか、自身の作品を通して、何かを語りたいとか、問題意識とかいうものは、最初から何もなかったもんなあ。
 ただ、自分がやりたかったことを最後までやり通したという個人的事情のみ。あと、ファンであるナウなヤングへの先導役としての自覚。
 あれを飽きずに読めるのは、種村直樹という存在に価値を持つことができる人だけだろう。「日本で唯一のレイルウェイライターである種村直樹」の言動に何か意味を見いだそうという人ならそれで十分なのかもしれない。だが、そこまで親切な読者はそんなに多くないというのも確かだ。
 たまに「旅と鉄道」を立ち読みするとまだ連載が続いていたのか!!と驚かされた。けど、本文を読む気はしなかったなあ。その「旅と鉄道」自身が休刊してしまって連載を読むスペースもなくなつちゃった。単行本で追い続けていたんで、一応、最新刊まで全て揃えたが、読むのはかなり大変だった。
 鉄道ブームとか言われ出した2005年。単行本が出ているんだけど、知っている? アンチも含めて誰も話題にしなかった。

気まぐれ列車で行こう 瀬戸内・四国スローにお遍路

気まぐれ列車で行こう 瀬戸内・四国スローにお遍路

 まだ最初の5年ぐらいは種村先生の威光が輝いていたんで、本人への関心込みで読めたんだけど、80年代半ばから「郵便局、郵便局、船、バス、また郵便局、晩飯……」というアレな話ばかりになってしまった。
 自分の興味のあることをやり遂げたい。外周の旅を完結させたい。その意志は十二分ほど理解できる。
 ただ、それだけしか動機として描かれていないから、読む方としても辛くなる。行程紹介と身辺雑記と感想だけで29年間も続いた旅行日記。小笠原諸島でも、五島列島でも、八重山諸島でも、基本、同じ話ばかりである。過去の日記をコピペして固有名詞を変えれば、また別な旅の行程として応用可能だ。これは並大抵のフリーライターにマネできることではない。


 彼の作品が真に凄いのは、文章が時代性や地域性や文学性や旅の情緒や政治性や......というものから程遠いところから書かれているという点。ただただ種村先生の見て感じたことだけが書かれている。児戯に充ち満ちた単純さを味わうという消費の仕方もあるんだけど、種村直樹というアクの強い著者の存在がそれすらを妨げる。
 29年間も日本列島の隅々を、しかも海岸線を歩き続けたんだぜ。低成長→バブル→不景気……と流転していく中で、彼が歩いてきただろう港町は大きくその姿を変えていった。公共交通も自治体も地方経済もなにもかもが変貌した。と、共に、民俗学歴史学における海の民に対する語り口も豊かになっていった。離島や辺境や秘湯や船旅が旅行好きにとって魅力あるモノとして介されるようになった。
 種村先生の作品からは、そうした時代の変化と成果がすっぽり抜け落ちている。なにかを調べようとか、なにかを掘り起こして万人に知らしめたいとかいう欲求はほとんどないみたい。
 なぜだろうか。それは種村先生が29年間も旅を続けながら、「外周の旅」とやらを続ける内的動機を最後まで見つけられなかったからだ。「気まぐれな旅をしたい」とか「ライフトラベル」とかは内向きの言葉に過ぎない。種村直樹というライターに何かの価値を見いだす人たちにとってはそれで十分なんだろうが、種村的世界の外部にいる他者へはその言葉や気持ちは通じない。
 意識して文章を続けたわけでもないから、資料的価値も弱い。日本の海岸線を津々浦々と回った先人としては民俗学者宮本常一を思いだすが、種村先生が彼のように後世評価されることはなさそう。

種村直樹は昔も今も語るべき言葉も立場も自覚していなかった

 旅行派鉄道マニアたちの少なからず人たちは、種村直樹作品を通して鉄道旅行の楽しさを学習した。そして、種村先生の内向けの言葉や論理に違和感を抱いたからこそ、彼から離れていった。
 そもそも種村直樹がライターを続けてきた動機はなんなんだろうか。作家生活を通して何を語りたかったのだろうか。
 ついつい僕らは、彼の言動から、辛口で事情通の鉄道評論家として見てしまいがちだ。なんせ、あの毎日新聞の元記者なんだし。
 ところが、彼が書いている文章をよくよく読んでいると、ふと気付かされる。実は、彼の文章には、主義主張も、立場も政治思想も何もかも存在していないということを。
 上で29年間書き続けてきた「外周の旅」の中身がないということを婉曲的に語ってきたが、それは彼が30年以上続けてきた「鉄道ジャーナル」の「レイルウェイレビュー」を読めば分かる。
 この30年間、鉄道業界で起きた最大の変化は国鉄分割民営化だったわけだが、種村先生はその激変時にどのようなスタンスで臨んだのか。彼は何一つ、自分の考えや主張を述べていない。国鉄改革を批判する人たちからはその生ぬるさを指摘され、JR化やむなしと解した人たちからは旧態依然とした発想を批判された。
 その時は、鉄道趣味業界で仕事をやっていく上で、国鉄当局にも組合側にも偏っていくことはできない。だから、オトナの態度で言葉を濁してきたんだ……と感じた。
 そうした配慮はあったと思う。と共に、そもそも彼には語るべき言葉も思想もなかったんだとも薄々気付いていた。
 確かに、なんとなく国民のため、鉄道職員のため……という言葉を並べている。利用者に配慮した鉄道経営をして欲しいという漠然とした意見はあった。「安全」や「公共性」という定型句も繰り返される。
 だが、きちんと理論的構築がなされていないんで、なにか空々しいのだ。どこかで聞いたような、借りてきた言葉ばかり。あるいは直感的な物言いによる断言。
 たぶん、種村先生は新聞の社説みたいなことをやりたかったんだなあ、と思う。元毎日新聞記者という経歴からも彼が目指そうとした方向性が見えてくる。不偏不党、中立的かつ客観的な立場から何かを語りたかったのだ。80年代末に「利用者至上主義」という分かり易い立場からポジショントークを始めた川島令三とは明らかに違った。
 日本の新聞の社説の多くを見ても、事件の背景をいろいろと解説しているだけで、社会が悪いだとか政治が悪いだとか毒にも薬にもならないことしか書いていない。たいして中身のある批判も存在しない。誰が書いているのかも分からない。ただ、朝日だの、読売だの、毎日だの、それなりのブランドを持つビッグネームがそれらしく語っているからこそ、ある程度は意味も出てくる。
 ただ、フリーのライター……じゃなくて、日本で唯一のレイルウェイライターである種村先生には、そうしたバックボーンがない。元毎日新聞記者という肩書きも、国鉄解体→人脈の喪失によって、神通力は失われた。

そして鉄道マニアたちが種村先生を見捨て始めた

 国鉄が消えて、ローカル線ブームが一段落付き、バブルでちょっとJRがイケイケになっていた80年代後半。種村先生は、自分の立場を理論武装し、ギアチェンジしながら新境地を開拓"すべき"であった。
 だが、彼は何も変わらなかった。「鉄道ジャーナル」でいつもの連載を続け、「外周の旅」で郵便局を回り、友の会の人たち向けのイベントを続けていく。
 1987年春で51歳。守りに入るには早すぎた。
 90年代前半は、80年代と同じようなペースで新刊を出し続けるが、基本、昔やっていた頃との焼き直しで大量生産していただけである。日本で唯一のレイルウェイライターである種村先生は、次第に内向きへとシフトしていく。
 自分のファンに向けて言葉を紡いでいればそれなりに反応があった。ビジネスにも繋がっていた。オトモダチ感覚と仲間意識を種村周辺に求めていた人もまだまだそれなりにいた。
 一方、自力で現場や書庫から資料を見つけて、当事者から話を聞いて、コツコツと積み上げていくような作品はほとんどない。周辺雑記をまとめたエッセイ本ばかり。「東京ステーションホテル物語」のような作品をいくつか積み重ねていけば、老成していくやり方もあったのだろうけど、そうしたことに興味を示さなかった。

東京ステーションホテル物語

東京ステーションホテル物語

 大手新聞の論説委員ならそういうやり方も有りだろう。でも、フリーのライターでそれでは困る。
 反論不可能な正論と手前勝手な直感は、次第に鉄道マニアたちから飽きられてきた。SLブームから20年、ローカル線ブームから10年経ち、いろんな学習を経てきたことで、それぞれが"成長"し始めた。種村先生が発せられる正論の胡散臭さにも気づき始めた。しばしば彼の"偉そうな"語り口は批判の的となったが、それも仕方ない。だって、言葉のあれこれに中身がないんだから。高所から表層を拾い上げることしかできないから、足をすくわれてしまう。
 3年前、「種村直樹が歴史的使命を終える瞬間を見てしまった - とれいん工房の汽車旅12ヵ月
で書いたように、

 80年代後半になって国鉄が消え、ローカル線ブームが一段落つき、そして種村の魅力と影響力が薄れていく中で、次第に反発の声が強くなってきます。鉄道趣味から足を洗おうとした人間からも、そして鉄道趣味を深化させようとした人間からも批判されてしまう。ある種の「親殺し」がここに始まったわけです。

というような状況になってしまった。
 種村先生は、1980年に「外周の旅」を始めてからの29年間。「日本で唯一のレイルウェイライター」である立場に安住してしまった。自分の過去の実績と言葉とファンを過信しすぎた。

結局、「外周の旅」とは、過去の思い出を再確認するための場に過ぎない。

 その日本で唯一のレイルウェイライターである種村先生。最近は、

  • 2006年 「鉄道ジャーナル」連載打ち切り
  • 2008年 「旅と鉄道」の休刊発表→月刊誌連載終了
  • 2009年 「日本列島外周気まぐれ列車」終了

ということになっている。
 単行本も、まともに刊行できていない。中央書院で「鉄道を書く―種村直樹自選作品集」を出してもらった以降6年間、自分の筆で書いた本ってのは先述の「気まぐれ列車で行こう 瀬戸内・四国スローにお遍路」一冊ぐらい。あとは、親族がやっている同人誌的出版社SiGnalの編集本か、名義貸し的なノウハウ本ぐらいである。
 今年で73歳。大病に倒れた2000年以降、いろいろあったというのは理解している。多くを求めるのは気の毒だとは分かっている。
 だからこそ、まだ若かった50歳代に、腰を押しつけてテーマを見つけながら円熟味を出して欲しかった。次のステージを見つけて欲しかった*1
 でも、彼は自らの感性と過去の実績頼みの文章ばかり書き続けた。旅先で軽く書き殴ったような文章を縮小再生産していく。なんで、御本人の天然系の言動と波長の合わない人たちが徐々に離れていく。
 90年代以降の人気低下は御本人自身の問題であった......というのは誰が見ても明らか。けど、本人が自分の方向性に今でも疑問を抱いていないなら、それはそれでいい。それを今さら批判しても仕方ない。だから、僕は生暖かく見続けている。
 というか、ほとんど全てのフリーライターって、その名前すら読者に記憶してもらっていない。その中で、毀誉褒貶……というより、ここ15年ほどは一方的に貶されているだけなんだけど、それだけ読者たちに意識されているってだけで幸せなんだろう。かつてのファンたちから依頼されて原稿を書くことも多くなっている。
 往年より少なくなったとは言え、今でもファンもそれなりに存在するみたい。記事に出ている日本橋のイベントでは、「約100人のファンに大きな拍手で出迎えられた」んだとか。僕が種村マニアなら、旅の偉業を祝福したいという表面的なことより、種村先生を中心に囲む機会ってもうないんじゃないんという気持ちが先に来ていたと思う。種村先生と空間を共有することで、彼が29年前から何も変わっていないことを、そして自分が鉄道好きになった動機を再確認したいという思いもあっただろう。
 結局、「外周の旅」とは、過去の思い出を再確認するための場に過ぎない。だから、上で述べたように、「『外周の旅』か……何もかも皆懐かしい……」というぐらいしか語ることができない。申し訳ないんだけど。
 なんで種村先生が円熟味を求めていく方向に行かなかったのかな……というのは素朴な疑問としてはある。基本、派手好き、目立ちたがり屋な人なんだろう。地道な作業は苦手そう。それと、鉄道旅行を文章にすることには興味があったけど、鉄道や鉄道旅行そのものに興味があったわけではない。
 元毎日新聞記者であったプライドが邪魔したんだろうかとか、鉄道系ライターの第一人者の割りにはファン以外からの評価が低いとか、そういうことが気になったんだろうか。新潮社や文藝春秋社とかの一流雑誌に連載させてもらう機会は最後までなかったものなあ。宮脇俊三とは明らかに扱いが異なった。どこまでも手に届かなかった宮脇をどう思うのかと御本人に一度聞いてみたい(たぶん激怒されそうだけど)とは思うのだけど、それはまた別の話。<参考>
種村直樹が歴史的使命を終える瞬間を見てしまった - とれいん工房の汽車旅12ヵ月

*1:一応、ミステリを書いたりもしたけど、ミステリマニアからも鉄道マニアからも評価されず、なによりファンクラブの人たちですら距離感を抱いた。小説を紡ぐ能力がなかったんだろう。