今さらなんですが、米澤嘉博さん、ご冥福をお祈りいたします。
コミックマーケット準備会の代表だった米澤嘉博さんの死を知ったのはプノンペンの安宿でした。10月7日のことだと思います*1。
冷房付きの宿でゴローンとテレビを見ていると、NHKの海外放送が。なんか見たような番組が……と思ったら、「つながるテレビ@ヒューマン」(「つながるブログ@ヒューマン」)だったんですね。で、冒頭に「米澤嘉博」の文字が。出国前に米澤氏が代表を禅譲したという話を聞いていたのですが、さすがにNHKで扱うネタじゃない。でも、今週、ブログで一番人気の情報だと言っている。
よく聞いていると、米澤さんが死んだと言っているじゃないですか。えっ……
24耐コミスペ4で御著書を譲ってもらいました
最近、海外にいてもネットカフェに入れば日本のニュースがリアルタイムで入ります。プロ野球の結果やら芸能情報やらなんやら、そうした細かい話もYahoo!のポータルサイトにでもアクセスすれば簡単に手に入るんです。日本語での出力もできたりする。凄い時代になったモノです。ただ、海外に出てまではネットにしがみついて情報を集めているのが格好悪いので、私はあまりネットカフェにはいかないようにしています。ましてやNHKの海外向け放送を受信できるホテルなんて泊まったことは一度もありませんでした。
youtubeにアップされていた映像で改めて見直したのですが、5分ぐらいのなかなか大きな扱いでしたね。「王様のレストラン」のメインテーマというのがまた泣かせます。
2005年春の「30周年記念24耐コミケットスペシャル4」のとき、朝4時ぐらいに米澤さんのブースに行ったらご本人が中古本の棚卸しをしていました。なんだか怪しいゾッキ本をいくつか売ってもらった後、未整理の山で見つけたのが『戦後少女マンガ史』と『戦後ギャグマンガ史』(新評社,1981)でした。
ずっと欲しかった『少女マンガ史』……でも、ボーっとしていると、隣で品定めをしていたに方に持って行かれました。で、とにかく『ギャグマンガ史』をゲット。そのついでにサインももらっちゃいました。「この本、書庫を整理していて出てきた最後のヤツだよ。うちにももう一冊しかないんだから、大切にしてね」ということでした。米澤氏の代表作の一つを本人から譲ってもらえたとは……今から思えば貴重な体験をしたものです。
阻害されてきたオタク文化。そして何でも受け入れたコミケ。
初めて訪れたのは15年前の夏。関東地方で鉄道旅行をしていた際、偶然、コミケットの開催を知ってしまいました。幕張から晴海に出戻りした40回で、それから皆勤賞を続けています。
90年代に僕が同人誌の世界に、そしていつしか商業出版の世界に踏み入れることができたのも、米澤代表のおかげのようなものです。米澤代表とその仲間たちが、マンガとは懸け離れている自分のような異質な存在をも認めてくれたからこそ僕は今日まで活動を続けることができました。そもそもマンガ同人誌のイベントと鉄道系、しかも文字だらけの本は相容れないと思います。でも、あの広い会場の片隅で活動することを許容してくれました。
永年、オタクという存在はメインカルチャーからも若者間のコミュニケーションからも阻害というか排除され続けてきたわけで、それは21世紀になった今でも基本的には変わらない。だからこそ、コミックマーケットという組織が、あらゆるものを受け入れようと試みたのも必然的だったのかもしれません。オタクが自分らと同じような嗜好性を持っている連中を阻害したり、排除しているというのも確かに変な話です。米澤代表は「アマチュアならなんでもOK」という基本方針を守り続けてくれたのですが、それは自分も含めたオタクたちの出自からくるものだったのかもしれません。
昨今、オタク文化の浸透と拡散が進んでいく中で、受け手の間での共通言語が失われているような印象があります。だからこそ、あらゆる表現者を受け入れる場というのは貴重であった。その方針が今後も維持されていくのか。自分も含めた参加者たちの立場というのが改めて問われているのかもしれません。
改めてご冥福をお祈りいたします。
ならば、12月30日の冬コミ2日目の鉄系島に「とれいん工房」としてサークルスペースを確保しているんだし、なにか本を出さねばいけないですよね。そろそろエンジンをかけて行かねば……と思うのですが、それはまた別の話。