今里筋線建設までのウンチク。

katamachi2006-12-09


 さて、「今里筋線クリスマスイブ開業」まで2週間に迫りました。今日はその建設の由来について解説してみましょう。

今里筋に地下鉄を敷く話は戦前からあった

 この今里筋というか、市道森小路大和川線で初めて地下鉄が企画されたのは今から80年前のことです。1927年に大阪市営地下鉄4号線として、大阪港〜長堀通〜今里〜杭全(JR東部市場)〜平野泥堂町(JR平野)〜平野西脇町(南海平野)間の特許が鉄道省内務省に認められています。このうち、今里〜杭全間は現在の今里筋線未成区間と同じルートを通っています。
 ただ、戦後、大阪市地下鉄の計画は全体的に見直され、1959年に特許は返上されています。この4号線の計画を引き継いだのが中央線と千日前線になるわけです。
 この間、今里筋(この名称が付いたのは1990年のことです)というか都市計画道路森小路大和川線にはトロリーバスが走っていたのですが、1970年に大阪市バスへ転換されています。
 今里筋の地下鉄計画が再び浮上してくるのは、大阪市大阪府が中心となった鉄道網整備調査委員会の計画案が策定されたときです。発表されたのは1982年のこと。ここで「太子橋今市〜緑橋〜湯里六丁目 15km」が対象路線として取り上げられています。この段階では東淀川区への延伸は予定されていなかったのです。ただ、この委員会案はなんの拘束力もありませんし、推進する原動力にもなっていませんでした。

運輸政策審議会では最低ランクの扱いだったのに建設してしまった

 続く1989年、今度は運輸政策審議会の答申10号が発表されています。ここで、「上新庄太子橋今市〜湯里六丁目」が取り上げられました。通称は「森小路大和川線」。今里筋線計画のスタートとなったわけです。
 ただ、この答申では、大阪市の東側を南北に結ぶ鉄道計画として、大阪外環状線(新大阪〜放出〜加美)、大阪モノレール(南茨木〜門真〜東大阪市堺市)の二ルートも取り上げられています。外環状線は50年代、モノレールも70年代から検討されてきた歴史のある鉄道計画です。さらに今里筋線を盛り込ませるのは……どう考えてみても不可思議な話です。
 実際、鴫野から今里や杭全方面へ行くバスに何度か乗ったことがありますが、大阪市内の住宅密集地帯を走るにも関わらず、利用者は決して多くありません。運行本数も毎時三〜四本程度。沿線の旅客流動のほとんどは都心の方に向いているから仕方ありません。
 答申10号での評価も「2005年までに整備について検討すべき路線」と一番低いランクでした。他に「整備すべき路線」「緊急に整備すべき路線」とされた区間はたくさんありましたし、下位ランクの今里筋線を推進しなければならないという理由はあまり見いだせません。
 ところが、1996年12月、突然、大阪市の事業計画の中に8号線計画が組み込まれました。今里筋線ですね。建設費は4000億円、計画区間井高野〜今里〜湯里6丁目間に変更されました。井高野は鉄道駅から離れており、都心へのアクセスには不便な場所でした。大阪市の26区で地下がないのはウチだけだ!(西淀川区JR東西線此花区はOTS線計画有り)と、東淀川区の関係者や市議からの突き上げも激しかったようです。もはや地域開発だとか輸送需要だとかという考えとは別次元で地下鉄建設が決定される時代になってしまったようです。
 それでもこの1996年の予算折衝では今里筋線計画は認められなかったのです。すでに建設が始まっている大阪外環状線と計画ルートが重なっている点。そして開業後の収支が見込めない点を大蔵省から問題視されたのです。そのため、運輸省関係の補助金は認められませんでした。
 ところが、1998年12月の予算折衝の過程で、建設区間井高野〜今里間に限定するとの条件で、ようやく予算化されることになりました。
 そして、計画区間変更→特許申請→運輸省よりOK→建設スタート……と来て現在に至るわけです。
 今さら不採算路線がどうのこうのと新聞も騒いでいるようですが、すでに遅すぎる。どうせなら10年前の段階できちんと大阪市政とそれを取り巻く連中の無軌道ぶりを糺して欲しかった。最近、市職員の不正があちこちで叩かれているのをみてそんなことも感じたのですが、それはまた別の話。