大阪港トランスポートシステム・北港テクノポート線を歩く その1

katamachi2007-07-17

 大阪南港コスモスクエアへ行く地下鉄中央線を北港埋立地である夢洲舞洲、さらに新桜島まで延伸しようという謎の鉄道構想がある。北港テクノポート線
 予定では、大阪市系の第三セクター大阪港トランスポートシステムが2008年度までに開業することになっている。かつて、この北港埋立地で「大阪オリンピック」構想があり、観客輸送のため企画されたが、誘致に失敗した現在でも工事は進められている。
 今回は、そんな訳の分からない状態になっている路線について紹介してみよう。

大阪南港への鉄道計画とニュートラム

 大阪市は、1958年から埋立を始めた南港人工島に、当初、重化学工業を中心にした工業団地の建設を予定していた。だが、企業誘致に失敗したため、1972年に方針転換を図る。海岸部をコンテナ埠頭に、中心部を住宅地として整備することにしたのだ。関係五局から人材を集めた大阪南港新交通システムプロジェクトチームが1974年1月に結成され、南港住宅地への交通機関についての議論を始める。
 南港〜住之江公園大阪市南部(敷津長吉線の原型)に中量軌道を敷設する方針を早い段階で固めていたので、続く議論の対象となったのは、南港から大阪都心部へのルートだ。南港から港区経由のルート、南港から大正区経由の二つが候補となる。港区延長案(南港・港区連絡線の原型)は埋立地と港区を結ぶ港大橋を通過する設計が難しい点、大正区延長案は港湾部の水路が障害となる点が問題視される。
 結局、1975年3月に出された報告書では、港区方面への延長を推進する方針が示される。このうち、建設技術上、問題が少ない住之江公園〜南港間を緊急整備区間とし、南港〜港区間住之江公園大阪市南部(住吉方面)間は需要の動向や問題点の解決を図りながら検討するとされた。どのようなタイプの中量輸送機関を導入するかについて識者の間で意見は分かれたが、1977年に新交通システムを採用することが決定する。
 1980年に市営住宅ポートタウンの入居がスタートし、1981年から新交通システムニュートラム住之江公園〜中埠頭間で営業運転を始める。
 ただ、ニュートラムは、駅間距離が短く最高速度が低く抑えられているためやたらと遅い。梅田や本町まで一時間弱ほどかかるため、利用者の評判はあまり良くなかった。一番問題視されたのは輸送力の小ささである。朝ラッシュで通勤客が集中したり、イベントが開催されたりすると、乗車できない客がホームやコンコースに溢れ出すこともしばしばあった。フレキシブルな輸送に対応できないことを露呈した。

「テクノポート大阪」とテクノポート線

 その後、大阪市は、1983年8月、市政百周年を記念して総予算2.2兆円の湾岸開発計画「テクノポート大阪計画」を発表している。北港に埋立島を二ヶ所新設し、南港埋立島も拡張した上で、先端技術や国際交易、情報通信機能を兼ね備えた新都心を整備しようというものであった。
 時は80年代後半、日本経済は未曾有の好景気を謳歌していた。政府の民活政策と四全総をきっかけに、大阪市は1990年に「大阪市総合計画21」を作成し、それ以降、この「テクノポート大阪」計画の実現のために邁進することになる。
 多極分散型国土の形成、国際化、民間活力の導入、情報化、大阪湾ベイエリア開発、アジア・太平洋地域の交流拠点、関西国際空港、双眼型の都市構造、高次な都市機能、先端技術開発、国際交易拠点、情報通信センター、24時間都市……計画書に記された言葉を並べてみると、なにか懐かしい、遠い昔の出来事のように思えてくる。21世紀にはそんな夢のような都市が大阪港の埋立地に出現することになっていたのだ。
 そうした常住人口6万人、昼間人口20万人を抱える埋立地と都心を結ぶアクセス手段として企画された鉄道計画。それがテクノポート線である。

ニュートラム大阪港駅まで乗り入れる予定だった

 当初は、1975年の決定通りニュートラム大阪港駅に連絡する案が検討され、1982年の鉄道網整備調査委員会の構想では「臨港線」南港〜大阪港間3kmが採用されていた。トンネル断面は小さくて済むので建設費は安く仕上がる。運輸省の港湾予算からの補助が容易な点も考慮された。
 それでも南港トンネルの建設費は莫大なものになると想定されるので、累積赤字が膨らみつつある大阪市交通局の財政にはそれを負担する余裕がない。「大阪市民のための足」とは言いにくい湾岸開発用の新線の建設費を地下鉄利用者や一般会計に負担させるのも筋違いである。
 そこで大阪市は、地下鉄を運営する交通局ではなく、市の外郭団体である大阪南港複合連絡ターミナルに建設を委ねることを決める。同社は大阪市が50%、関西電力大阪ガス住友銀行大和銀行が5%ずつ出資して1974年に設立された第三セクター会社で、主に南港のトラックターミナルや倉庫、建物の賃貸など大阪港界隈の物流拠点の運営にあたっていた。1988年12月に「大阪港トランスポートシステム(OTS社)」と改称している。
 OTS社は、1988年8月に「南港・港区連絡線」大阪港〜中埠頭間3.6kmの案内軌条式鉄道、いわゆる新交通システムに関する申請書を運輸省建設省に提出し、12月に大阪港〜中埠頭間三・七kmの特許を取得。1989年に工事施行工認可を受けて、工事に着手する。工事費は150億円、1995年完成と想定していた。
 1989年の答申10号では、「大阪テクノポート線」の名前で計画は採用される。大阪港〜海浜緑地(コスモスクエア)〜中埠頭間の南港テクノポート線がAランクで採用されたほかに、コスモスクエア北港南(夢洲)〜北港北(舞洲)間の北港テクノポート線北港北〜此花方面の新線が盛り込まれる。

運輸省も難色を示す南港テクノポート線の地下鉄規格への変更

 だが、1990年になって大阪市は、ニュートラムでなく、輸送力の大きい地下鉄中央線を南港に直通させる案を検討し始め、運輸省に大阪港〜海浜緑地(コスモスクエア)間2.4kmの設計変更を申請する。南港と港区を結ぶ南港トンネル(大阪港咲洲トンネル)には延長1.0kmの沈埋型海底トンネル方式を採用することにした。これは事前に造って置いたトンネルの枠組を海底に沈下させる工法で、工費を安く抑えることができる。地下鉄用と道路用を併設した規格で設計し直された。
 大阪市が地下鉄案を持ち出したのは、南港・北港の開発のために、埋立地大阪都心と結ぶ速達性のある交通機関が欲しかったからだ。南港地区の開発を進めていく上で一番の問題は大阪都心部から遠いという問題だった。梅田地区から南港に向かうと一時間近くかかっていた。ニュートラム大阪港駅北港埋立地に延伸してもスピードが遅いのは変わらない。それでは企業進出、住宅地の販売は進捗しないであろう。また、南港から都心へ向かう通勤客が集中する朝ラッシュ時に積み残しが頻発してニュートラムの輸送量不足が顕著となってきた点、そして運輸省助成金が通勤鉄道にも認められるようになった点も、地下鉄計画に転換した背景にあった。
 ただ、運輸省は、南港テクノポート線新交通システムで十分、と判断し、いったん軌道敷設特許の鉄道敷設免許への変更願いを却下する。それに大阪市は反発。再交渉の結果、一九九二年末の政府予算折衝で南港テクノポート線のうち、大阪港〜海浜緑地(コスモスクエア)間の地下鉄規格への変更が認められ、運輸省の翌年度の補助金が下りることになった。
 地下鉄乗り入れがコスモスクエアまでとされたのは、二一世紀初頭に開発が進むと期待された北港地区へも地下鉄で乗り入れることを想定していたからである。コスモスクエア〜中埠頭間1.3kmにはニュートラムが乗り入れることになる。

大赤字を抱えた大阪港トランスポートシステムと大阪南港・港区連絡線

 1997年12月に、OTS社は大阪南港・港区連絡線(南港テクノポート線)大阪港〜コスモスクエア間2.4km、およびニュートラムテクノポート線コスモスクエア〜中埠頭間1.3kmを開業し、前者は大阪市中央線と、後者はニュートラムと直通運転を開始している。建設費は総計880億円とされている。
 ただ、その後、OTS社は経営難に陥り、2005年7月から鉄道事業の運営を大阪市に委ねることになった。南港・港区連絡線のうち、中埠頭〜トレードセンター間(ニュートラム)の軌道事業を大阪市に譲渡すると共に、トレードセンター〜コスモスクエア間(ニュートラム)および大阪港〜コスモスクエア間(地下鉄)の鉄道事業については、大阪市が第二種、OTS社が第三者鉄道事業(従前は第一種)の許可を得ることになったのだ。
 OTS社はもともとは南港のトラックターミナルなどを運営している優良企業だったのだが、鉄道部門を抱えたことで開業以降、赤字経営が続いていた。利用者が大幅に予想を下回ってコスモスクエアトレードセンター前駅の合計乗客数は1.6〜1.8万人に留まった。アジア太平洋トレードセンターや大阪ワールドトレードセンターなど大阪市系のビルや商業施設の入居率が予定を大幅に下回ったのと、OTS線を使うと地下鉄料金とは別に割高な運賃を払わねばならないのが敬遠された。市役所のいくつかの部門を南港に移すことで経営改善を図ろうとしたが根本的な解決には繋がらなかった。
 そこで、OTS社の経営再建と、運賃低廉化による乗客増を期待して、運営と料金を地下鉄に一元化することになったのだ。これにより、たとえば梅田駅からコスモスクエアへの運賃は480円から270円に下がっている。ただ、同社の債務の残額135億円については、交通局が施設や車両の代金56億円を負担したり、線路使用料として年額8000万円強を払うなどの経営改善策が打ち出される。運賃値下げは歓迎されたものの、市税で負担することには批判も大きかった。
 この続きは、2001年のIOCモスクワ総会と大阪オリンピックに関しての話なんですが、それはまた別の話。続きは、2007-07-25 大阪港トランスポートシステム・北港テクノポート線を歩く その2